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2006年1月23日 (月)

「トワイライト」重松清

本当は荻原浩の「明日の記憶」でも書こうかな、と思ったんですが、私の感覚ではちょっと今一歩かなあと思い、こちらにしました。ちなみに「明日の記憶」は、ダニエルキースの「アルジャーノンに花束を」を意識した書き口が少し印象に残りましたが、ちょっと淡々としすぎていたかな?

「トワイライト」は出張中に何冊か読んだ内の一冊です。重松氏の本は「見張り台からずっと」を見て、「ボブディラン(というより私の中ではジミヘンでもなくフランクマリノ)かあ?」と思って読んだのが最初です。恐らく三十代後半からの人にとっては、重松氏の小説は納得しながらも切なくなる小説と思います。

この本も、26年ぶりの同窓会から始まります。

ネタばれは本意じゃありませんので内容については割愛しますが、三十代後半というのは良くも悪くも人生の後半を意識する時期だと思っています。ふと気がつくと会社以外で知り合う機会はない、会社に親友などいるはずもない、会社の中でも先もある程度見えた(私などはもう見え見えの途中下車)、妻は恋人ではなく家族になる、といって恋人が出来る出会いなど無い(という人が大半でしょう)、その家族は皆微妙な時期になる、わくわくすることは明らかに少なくなる、という内患外憂の典型のような時期だろうと思います。同窓会も、その自分の位置をどこかで相対化した確認をしたくなる欲求の表れだと思っています。

重松氏の小説はその不安定な心をグサグサ突いてくるわけです。だから、「三丁目の夕日」のようなノスタルジー描写は、あくまで今を浮き上がらせるための小道具になっているにすぎません。だからこそ、下り坂を意識している人間(私もそうです)にとっては、きわめて「鈍痛のある」小説になるのでしょう。まだまだ上り坂を進んでいると思っている人は、こんな小説は「うじうじしたもの」と一刀両断するかもしれません。

まただからこそなのでしょうが、登場人物はいつも情けなく、あっちへふらふらこっちへふらふらという迷いまくる不惑の大人であることばかりです。この点では、以前書いた白石一文氏の小説での登場人物とは正反対ではあります。

山下達郎の曲に「蒼茫」という曲がありますが、重松氏はこの時代の無名の市民(正に「蒼茫」)を記録したいのかもしれません。重松氏の小説を読むと、山下達郎の「さよなら夏の日」を下絵にして「蒼茫」を聞く、そんな感じがします。

「小学校や中学校の自分は今の自分にはないのだ」という当たり前、かつ冷徹な現実を再度確認することは、重松氏の小説に共感する人ほど厳しい作業だとも思います。かつてのバカやっていた友達も落ち着く、初恋の相手と現実に恋に落ちてもそれは当時の延長ではない、という当たり前のことがなかなか分からないですね。

そんな色々なことがありながらも結局は何とか生きていかなきゃならない訳です。それが生活であり人生ってえ奴かも知れませんねえ。

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