« バカジャケ列伝 | トップページ | 伝わらないイライラ »

2007年7月 8日 (日)

「アジア的生活」(浜なつ子)

最近少し腑に落ちないことを少し分からせてくれた本です。もしかするとこの文章は人を不愉快にさせているかも知れませんが、個人への攻撃ではないのでご容赦下さい。

アジア的生活「アジア的生活」

例えば、少し前に話題になった代理母出産について、何か引っ掛かるものを感じておりました。いや、子供が欲しいという気持ちは分かる、ただそこで「代理母出産」まで突っ走ってしまうその勢いに、「うーん、理解は出来るが納得は出来ん」という引っ掛かり。この問題は難しくて、「あなたは子供がいるからね」と言われれば、反論が出来ないだし、子供が出来たことに対して全く非難するつもりも無いのですが、何かすっきりしないものを感じています。

この本の後書きで浜さんは、「アメリカ人の死の直前まで諦めない姿勢を、凄いと思いながら同時に『しんどいなあ』と感じてしまう」という印象を言っていますが、この印象は凄く良く分かる。アメリカは超格差社会だから、そのようなことを思う間もなく死んでしまう人はとても多いと思うし、今のカトリック系の人たちは「代理母などとんでもない」と思っているでしょうが、やはりそこにはアメリカにある「健全な上昇志向」と言われるものへの疲れを感じてしまいます。

例えば、最近良く出てくるワタミグループの渡邊社長など、こういう健全さをお持ちでどんどん話をなさる。ところがそういう健全さが出れば出るほど、聞いているこちらが疲れてきてしまう。何か大目標を立ててそこにまい進する、その正しさを否定できないために余計に疲れてしまう。代理母出産についてもそうで、その正しさに対して、「え、そこまで動物の生理を超えたところに行っちゃうの?」ということが上手くかみ合わないんでしょう。理論と感情の行き違いというか。

浜さんが書いているように、「足りないもの」を受け入れて、それで自分の生活を見つめる、というのは必要だと思うし、それは別に努力を否定してのんべんだらりと生きることと等号でもないと思います。それは、「この環境は、理解が出来ないけど納得しよう」ということをスタートにすることかな?と思います。

それで言えば、今のアメリカから日本というのは、「幸せ探し」が行き過ぎているのかも知れません。大体、能力格差があっても生きていけるのは人間の特権(他の動物は能力格差があればそれは即、死を意味することが殆ど)ですから、それはある程度仕方が無い。問題は、ある特定の権益が守られる格差を作ることで、それは逆に人間の特権として撤廃も出来るでしょう。

私は、浜さんが書いているような「どんな環境でも幸せは平等」とは思わないし、やはり貧困は不幸だと思う。「貧困な子供の目は美しい」などという空想を信じてもいない(その点でこの浜さんのスラム描写は少し綺麗過ぎると思う)。であるからこそ、ある意味日本人であることは世界の中では相当幸運なことであろうと思うし、その環境で必要以上に足りないものを力ずくで補おうとするのは、違和感が拭えない訳です。

少し別の話で、上に書いた代理母ではないものの、体外受精で生まれる子供は既に日本で一万人を超えているのだそうです。ところが同時に、養護施設で生活している児童は約三万人。いや、凹凸で組み合わせるつもりはありませんが、ちょっと考えさせられる数字です。

|

« バカジャケ列伝 | トップページ | 伝わらないイライラ »

コメント

こんにちは(^^)

この本は読んだことありませんので、ドイツ特派員さんのblogから受ける印象だけでコメントしています。

アメリカ人は最後まで諦めない・・・アメリカ社会では立ち止まることは負けを意味してしまう、いつでも全力でがんばっていないといけないそうです。以前、私の恩師が留学したときにつぶやいていました。私はその頃はまだ若く大変なんだなぁ・・・と思いつつも、自分自身も立ち止まる暇もなく全力疾走してましたから軽くその言葉を流していました。

その後私は夢をつかむべく目標を掲げ走り続けてきたわけです、そのときは何も感じない言葉でしたが、がんばれば何でも夢は叶うとか、そのときそのときに悔いを残さないようにとか・・・そんな言葉って残酷なんだなと最近思うようになりました。それは、たぶん私が目標を置いてしまったからだと思います。世の中には頑張ったってかなわないことの方が多いと言うことを知ったからかもしれません。少し大人になった気がします。いろんな思いを抱きつつ、きちんと生きる、それは平凡と言う言葉になりますが、平凡に生きることがかけがえがないことでもあることを今しみじみ感じます。平凡に周りに愛を注ぎつつ生きる・・・心にゆとりのでてきた自分が今そんなことをのんびり考えています。

代理母出産を決意した方も目標と言う形で自分の中に掲げてしまったのではないかと思います。目標を据えたとき、人は他を見えなくなってしまいます。私も昨今の医学に対してうーんと思うこともありますが、人の意志とは無関係に技術は進歩する方向に動いていってしまうものだと考えます。他の分野でならそれはあまり問題になりませんが、医学技術や武器などの技術に関しては倫理観が絡んでくるため問題が複雑になる分野だと感じます。

何だかだらだらとまとまらないことを書いてしまいました(失礼なことを書いていたらすみません)、すみません。全力疾走で生きることより夕日がきれいって思える気持ち、そう言うのがきっと一番大切なんだと思います(^^)少なくとも今の私はそう感じています。

投稿: 240@s | 2007年7月 9日 (月) 15時11分

240@sさん、

失礼だなんてとんでもない!寧ろ頂いたコメントで更に頭が整理された気がします。

確かに、目標というか、理想の形を置いてそこに進むというのは、それが達成された時は本当にいい気分な訳です。ところが日々の生活っていうのは、「こうあるべし!」という形の出来ないものが列をなしてやってくるわけです。

例えば、上に挙げた渡邊社長は、「夢を手帳に」とか何とか言っていますが、日々の生活というのは別にダイエットの体重でもTOEICの点数でもない、曖昧模糊としたものの集合体だと思います。で、出来なければ「努力が足りない!」と言われれば、努力するんじゃなくドンドン袋小路になってしまう。

最近良く、「自己実現を仕事で!」とか言われますよね。うちのオヤジなんかは、「バカ、んな余裕なんか無いよ。お前みたいな極潰しが居て、金も無いのに何が自己実現だよ!」などと毒づきますが、それこそが毎日を必死で生きてきている証なんだと思います。オヤジにとっては、自己実現などそれこそ道楽に映るんでしょう。

240@sさんが、「平凡に生きる」と仰っているのが正に正鵠を射る表現だと思いますが、平凡に、真面目に生きるということを今軽んじているんじゃないか、と思いますね。頑張ってもかなわないことはありますけど、でもそれは勝ち負けじゃないし、どこかで生まれた人間は必要とされるものがあるはず、と思って何とか踏ん張る今日この頃。会社で歯車になることと、歯車になった人間であることとは等価にはなり得ませんから。

最近、子供がそれなりの年齢になると、まあ自分の子供時代に似ていること似ていること。親の苦労・父の悩みが手に取るように分かりますね。で、ここに妻からの叱責まで入るわけで...。

支離滅裂ですなあ、マイケルシェンカーに聞いてみますか(爆)。

投稿: ドイツ特派員 | 2007年7月 9日 (月) 23時11分

えーっと、思いつくままにレスさせて頂きます^^;
中国って国は、ご存知かも知れませんが「一人っ子政策」を推進してますよね。2人目が産まれると罰金で、それが払えないと家財道具を差し押さえるらしいです、、、
なんだか「代理母」のお話とは対極的な位置関係にあると感じました。


投稿: ちゅーざい | 2007年7月11日 (水) 01時12分

ちゅーざいさん、

そうですね、例えば日本は「子供を増やせ」と言っていますが、じゃあ世界はどうかといえば、「人口爆発をどうするか」が問題ですな。となると、どうしても移民問題に触れざるをえない所に行き着くような気がします。

ドイツにも200万人を超えるトルコ人が生活していて、特に旧東側では極右の攻撃対象になることがありますが、日本でもそういう事態がくるんでしょうか?既にかなりの労働者は日本人以外だ、というところが多いですなあ。

投稿: ドイツ特派員 | 2007年7月14日 (土) 09時14分

こんばんわ~。私もこの本は読んだことは無いのですが、ちょっと思いつくままに。

日本に(それが良いか悪いかは別にして)「あきらめの美学」なるものがあるじゃないですか。例の防衛相の「しょうがない」発言も実はこんなところから来ていると思っているのですが(だからって政治家がそれを言うなよ!とはもちろん思ってます)でこの「あきらめ」っていうのをどんどん無くす方向で世の中って進んできているような。。。

「子供をが欲しい」という純粋な思いの言葉と「代理母」というちょっと倫理・宗教観から違和感を覚える言葉が一緒になっちゃった「代理母出産」という言葉に引っ掛かり覚えるのは確かですよね。

同じようなことで私が引っ掛かりを覚えるのは、代理母出産のドイツ特派員さんの立場とは真逆になっちゃうのですが、いち時期ネットでも「死ぬ死ぬ詐欺」といって叩かれていたいわゆる「○○チャン募金」

誤解を恐れずに言うと、もし海外で何かの移植手術を行わなければこの子の命が助からない、でもその資金が無い。そんな時自分は果たして人様の懐を当てにしてまで我が子を助けたいと思うだろうか?もちろんその我が子を不憫に思うし、何もしてやれない不甲斐ない自分を責め続けるでしょうけれど。

「少しでも可能性があるなら、あきらめるな!自分を信じろ!」時としてこの言葉は人を奮い立たせ勇気を与えますが、おっしゃるようにちょっと疲れちゃうと気もありますよね。

あ、もちろんそうやってがんばっている人たちを否定する気も全然ないし、最近SINSEIがハマっているフィギュアスケートの世界でもそうやって夢に向かってがんばっている素晴しい選手たちがいっぱいいるので心から応援したい。

でもなんというか、例えば、ジュニアの時代からがんばっていたのにシニアになってから成績が振るわず、いつの間にか名前をみなくなった選手とか。たぶんそういう選手たちって私の知らないところでたくさんいると思うんですよ。(サッカーでもそういうのってありますよね?)

いつかどこかの段階であきらめる。自分の中で決着をつける。「あきらめる」ってネガティブなようだけれど、実は次への第一歩への始まりでもあるんですよね。

>「足りないもの」を受け入れて、それで自分の生活を見つめる(中略)それは、「この環境は、理解が出来ないけど納得しよう」ということをスタートにすることかな?と思います。

全く同感です。

投稿: SINSEI | 2007年7月15日 (日) 03時34分

Sinseiさん、

代理母や臓器移植の問題っていうのは、当事者と第三者では交わり得ないものかもしれません。かく言う私でも、じゃあ自分の子供に移植が必要となったら、恐らく駆けずり回ると思うんですよ。だとしても、例えば臓器売買というのお世話になりたくはない。物凄く悩むでしょうし、どの手当てをしてもその後は悩み続けるでしょう。

あと、最近はとにかく正解を求めているんでしょうね。「んなこと分からない」ということを許さない風潮。そこで無理して正解を出すものだから、何だかおかしなことになってしまう。

きつい言葉ですが、やはり才能が足りずに達成できないことは多いと思うんですよ。努力でイチローになれるか?それこそ荒川静香になれるか?そうでない時にどうするか?ということを考えてしまいますね。

取り留めありませんが、では。

投稿: ドイツ特派員 | 2007年7月16日 (月) 18時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104193/15697818

この記事へのトラックバック一覧です: 「アジア的生活」(浜なつ子):

« バカジャケ列伝 | トップページ | 伝わらないイライラ »