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2009年4月24日 (金)

東京オリンピック考

今日電車に乗っていると、みのもんたが東京オリンピックの招致を宣伝している車内放送を見掛けました。また、日経NBのHPに、勝間和代がこんな記事を書いていました。
今だからこそ東京オリンピック

ちょっと同意しかねるなあ。

大体もうオリンピック自体に存在意義があるのか?という問題があるんですが、それを横に置いていてもどうにもこういった意見に同意できない。

何故か?

単純に言えば、「皆が言っていることを達成するためには、オリンピック/パラリンピックがどうしても必要なの?」ということ。まあ宣伝なんでムキになる必要も無いんでしょうが、これで納得するのはどうにもできない。

例えば、「オリンピックがないと環境都市になれないのか?」という問題。まずは太陽光発電おおいに結構ですが、単純に太陽光発電と火力発電の比較でCO2排出量を論議しちゃダメですよ。太陽光発電の全ての生産設備製造・原料の購入と輸入・それらの移送などを考えているんですかね(すみません、この比較はまだ私は出来ていませんが、ちょっと調べてみます)?で、それで太陽光発電が優位だったとして、何でオリンピックが必要なのか?オリンピックなど無くてもやれば良い話。芝生だって、必要なら今からピッチ君を呼んで芝を植えなさい、って話。

また、「多様性をパラリンピックから学ぶ」という点については、正に日々の積み重ねで行なうべきもので、それを何だか祭りにその役目を持たせることは寧ろ恥ずべきことじゃないでしょうか。もとより、例えばシドニーやアテネでオリンピックを契機に多様性が増えたのか?北京に至ってはまあ何をか言わんや。

「知性」と「運動」の関係についてもそうなんですが、そこまで重要であれば直ぐに体育を強化するなりすればいいだけのことで、「だからオリンピック」というのはどうにも強引過ぎる気がしますね。もう一つ言えば、確かに一流のアスリートに知性が高い人はいるでしょう。が、サッカー好きの私としては、全くもっての例外を知っているので、同意は出来ない。マラドーナ、という名前を出せば、世界最高峰のアスリートと(あくまで一般に言われる)知性に何も関係が無いことが分かります。これは、知性の違いなんですよ。マラドーナがサッカーに対してアホだったということではなく、寧ろサッカーについては知性が脳ではなく筋肉に宿っていたと考えるべき。古くはジョージベストがそうだし、ロナウドもそう。

サッカーで言えば、寧ろ日本は広いグラウンドがあるがために強くなれない、という話もあります。ブラジルなどはストリートサッカーで細かなテクニックを鍛えて上手くなる、という側面がありますね。私が感じるのは場所自体より大人の許容度が減ってきていること。東京のど真ん中はいざ知らず、例えば空き地があるところもあるんですよ。そういうところを使わせない方に問題があるんじゃないかな?昔だってそんなに広いところで遊んでいた訳じゃないですが、その狭いところで遊ぶことを大人がとがめたことはないですね。

要は、オリンピック・パラリンピックを環境なり経済なり知性なりに強引に結びつける方に無理があるわけですよ。IT関連の人が身体を鍛えているのは良いですが、みんながそうな訳じゃないし、じゃあホーキング博士はどうしましょう?ということになってしまう。

ちょっとムキになっていますし、まとまりがないのでこの項は修正する可能性大ですが、私なら、「南米でのオリンピック・パラリンピック」ということで、リオでやるのが良いんじゃないかと思いますね。

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