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2009年5月16日 (土)

体験と情報の深い谷

「天海祐希はいい女」と言われてもピンと来ないのは何故なのか....。

というのはどうでもいい話ですが、最近、色々とブログのコメントやら本やらを読んでいて、ちょっと気付いたことを。

例えば、以前こういう話題をアップしたことがあります。私が高校生の頃に読んだ、毎日新聞のエース記者だった大森実が書いていた話です。ちなみに当時は(っていってもリアルタイムでは知らないですが)、ベトナム戦争スター記者として、朝日の本多勝一・毎日の大森実・産経の近藤紘一というのが有名だったと思います。その後産経の近藤紘一は確かベトナム人と結婚したはず。

1.ベトナム戦争のことをフランスで取材するためにフランスで通訳を手配する必要があった。
2.最初、日本人を雇ったのだが、背景など全然理解しておらず、全く使えなかった。
3.その後、別のフランス人(だったと思う)を雇ったら、非常に優秀で助かった。

ここまでは良いんですが、その後、トンデモ無い方向に議論を展開していきます。

ここで考えなければならないのは、どうして日本人はこうも語学が駄目なのだろうか?

ええええええええ?

どうしてこういう論調になるのか、このことだけが大森実として記憶されているんですね。

ところが、最近良く見かけるブログ炎上などのコメントを読むと、こういう構成が多いんじゃ無いでしょうか?

その① ある方のブログに書かれていたコメントの中での発言

1.自分は介護保険を40歳になっていきなり引かれ始めた。
2.親の代では60歳から引かれたと聞いている。
3.これだけかつかつの生活をしている上に、以前より早い段階からまた税金を引かれるのはどういうことだ?

ここまでは良いです。

何故我々世代だけこんなに酷い目に遭うのか(これは一例だが…という注釈はあるが)

その② 私の友人から聞いた話

1.Aという奴がMBAを取ったが、その後会社を解雇され、上手く行っていない
2.Bという奴も、MBA所得後はどうも会社を干されているようだ

で、この後

だからさ、MBAなんていうのをとっても碌な事にならんのよ

その③ やはりあるブログのコメント

1.電車の中で老人が妊婦を怒鳴りあげて席を取ってしまった
2.こんな傍若無人な老人は信じられない

で次が

こんなに老人が跋扈する日本は若者には魅力の無い国だ

どうですかね?

自分でこんなことを書いていて気付いたのは、何である意見に対するブログ炎上などということが起こるかということ(ここでは政治家の失言や芸能人のブログは省いて考えています、あくまである問題提起を含む意見に対する反応です)。それは、

1.自分の経験では述べている意見が事実である(と思っている)
2.にもかかわらず言われた相手にとってはその事実は事実ではない(と思っている)

ということでしょう。お互いに事実に基づいて話している(と思っている)。ところが、相手は「んなことはねえだろう!」という感情があるわけですね。

ここでまたアホな私が少し考えたのは、「一次情報」「二次情報」ということ。私はマーケット・営業畑でずっと仕事をしていて、「一次情報に当たる」という鉄則をかなり覚えてきました。ところが、ここで注意するべきは、じゃあ一次情報は正しいのか?ということ。よく、営業や予測について顧客に数字を聞いてくる。ところが別の情報が入った時、

「お客さんが言っているんだからそれが正しいんだよ」

という思考停止に落ち込むことがありませんか?逆に、

「あいつが言うことは信用できない、全部ウソだ」

という極端な見方も実は表裏一体のように思います。

上の①②の例に付いて言えば、話した人の感覚はある程度当たっているところがあるんだと思います。ただ、まだそれは「情報」じゃなく「体験」なんですね。①で言えば、じゃあ太平洋戦争の頃はどうだったか、今の若い人はどうなのか、戦争や解雇と比べれば大したことは無いじゃないの?という反論は出るでしょう。また、②については、やはり成功したMBAはやはりかなりの数いると思われるので、これまた反論の対象ですな。③は「老人」と「若者」を入れ替えてもしっかり成り立つ文章ですね。

(個人的なことで言えば、「今の時代が悪い」などとは言えないですし、大体何時の時代も「悪い」んだと思います。「昔は良かった」というところに行きたくはないし、逆に「今がとても良い」とも思いませんが、そりゃ戦争や内戦がなく、ずっと戦争をしていない国にいるのは、かなりの幸運だと思っています)

で、その「体験」を「情報」に引き上げるためには、一つは「統計」、一つは「二次情報」という補強が必要なんだと思います。最近は統計の大切さは結構感じていて、どんなこともある程度数値化して把握しなきゃ感情論だよなあ、と思う今日この頃です。で、逆に「体験」の無い「統計」というのは、個人の心情に落とし込めない、という問題はあるので、この「体験」を上手く議論に加えることで、更に議論が深まるのが健康的なんじゃないかな。

といって、何時自分に生かされるんだか......。

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コメント

 こんにちは~。

 う~む…相変わらず難しいこと考えながら仕事されてるんですねえ…。

 私の個人的な感想ですけど…。真実というのは見る人の立ち位置によっていくつも存在するのかなぁ…という気がします。絶対の客観性とはそもそも存在しないんじゃないかなと。
 新聞記事だって、記者個人の価値観で切り取った事実の断片に過ぎないわけで。それを読む段階で読者の価値観とか経験とかのフィルターがかかりますし。

 例えが適当なのかどうか分かりませんが、総会屋という絶滅寸前の業界がありますけど、私は実際にその業種の人と会ったことがあるんですが、世間で言われている「悪」のイメージとは遠い人でしたね。
 元々、企業はある種のアングラな業界とのチャンネルを有効に利用していた側面があって、持ちつ持たれつの関係だったものが、警察が再就職先の開拓のためにその役を成り代わった側面もあるみたいで。


 昨今のインフルエンザ騒動でも、私は何となく、最初から「夜中に大臣が会見して、マスコミが戦争でも始まったかのような勢いで大報道する問題なのかなあ」という気がしてました。それが正しい側面もあるし、そうではないという側面もあるんじゃないかなあ、などと少し冷静になり始めた報道を見てると思います。

投稿: しまうま | 2009年5月19日 (火) 11時36分

しまうまさん、

さすがにコメントが深いっす。勉強になります。

いつもこんなことを考えている訳ではないただのMetal Headなんですが、ふと考えてしまうこともあります。客観性云々については、私はそれを追う事は無いと思うし、追うことは無意味だろう、と思っています。昔誰だったか、「『客観性ならテレビカメラを24時間回せば良い』という奴が居たが、そのカメラをどう置くのか、望遠か広角か、そういう選択それ自体が既に主観なんだ」ということを言っていましたが正にその通りだと思います。

冷静さを常に持ちたいですね。

投稿: ドイツ特派員 | 2009年5月22日 (金) 00時00分

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