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2009年6月18日 (木)

臓器移植法可決によせて

ちょっとこれは私もまとまっていないのですが、何か意見を言いたくて書いています。考えが更に纏まるとこのエントリーを変えるかもしれません。

今日臓器移植法が衆院で可決しました。下は現行法との比較です。

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私が臓器移植ということを意識したのは、立花隆の「脳死」「脳死再論」を読んだ約四半世紀前だと思います。ちなみにこのころの立花隆の本は凄かった。今はかなり落ちちゃったなあ、と思いますが、当時これほど訳のわからない話を分かるように書いたということに私は衝撃を受けましたね。


で、私自身、この移植ということに関して、考えが纏まっていないんです。いや、自分がドナー登録することについては恐らく何の問題もありません。今手元に臓器移植提供意思カードがあり、もう書き込んで持っておこうと思っています。私が悩むのは、自分が差し出すよりも、「臓器を捜す」という行為についての心の纏まりが付いていないことなんです。

個人的な意見でいえば、私は臓器移植は「無理がある」と思っています。「反対」と言わないのは、自分の臓器は出しても良いと思っているから。何故無理があるか、と言われれば、感覚的に自然の摂理に反していると思うからなんです。その意味では人工授精も代理出産も「無理がある」という立場。

私だって、難病で苦しんでいらっしゃる当人やお子さんのために頑張っていることは全然否定できないし、そういうところを見て涙を流すこともしばしばです。自分だって、親族子供が同じようなことになったら、血眼になって走り回ると思います。それでも、「だから賛成」とは言えないところが胸のつかえ、なんですね。

何だろう、何をもって「天寿を全うする」ということなのか、ということへの思想なんだと思います。理想は老いて日向ぼっこでもしながらポックリ、という死に方でしょう。でも、そんな死に方が出来る人はそんなにいないし、大体が家で死ぬ人が一握りでしょう。

医学というのが進歩して(しすぎて)、天寿という考え方が変わってきているのでしょうか?今や生命を維持するだけであれば、100歳くらいまでは楽に維持できるらしいんですが、そこまで行かなくても、この医学の進歩で、受け入れるべき天寿のハードルが上がっている気がします。それは、産科での訴訟問題でも表れていると思っていて、明らかな医療過誤やたらい回しは論外として、死産にならざるをえなかった場合までが訴訟対象になってしまう事を恐れなければならない現実。「天命」ということの意味が変わってきているんじゃないでしょうか?

難しい話ではあるし、誰かを傷つける話でもあると思うんですが、もう少し自然な寿命というものを考えても良いんじゃないか?とも思うんですね。こういう話は、結局健康体である人間がするとどうしても「上から目線」になってしまうんでしょうし、「じゃあ病気の人は死ねばいいのか!」という怒りを買うことにもなります。ただ、今健康な人でも、紙一重で当事者(ドナーでもレシピエントでも)になる可能性があるし、こういう思いで迷っている人は沢山いるんじゃないか、と思うんです。

生まれたばかりの子供が亡くなる、ということと、100歳近い方が亡くなる、ということにどれほどの違いがあるのか?生まれて死ぬということでは等価なのではないか?

こういう解の無いことを考えていくことが、人生重要なんだな、と思う今日この頃です。

ひょっとすると、こんな過疎ブログでも定期的に来て頂いている方がいらっしゃるのですが、その方の何人かに不快な思いをさせるかも知れません(当事者がいないとも限らない)が、「命を助けたい」という気持ちを否定しているわけではないことは理解してもらいたいと思っています。

 

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