「できすぎ君」の世の中
最近「格差」ということを聞かない日がありません。実はこのことに関してずっと気になっていたことがありました。村上龍が主催しているJMMの配信メールで、アメリカ在住の冷泉彰彦氏の「from 9.11 USAレポート」というのがあります。私は好きでよく読んでいるんですが、以前読んだ記事が引っ掛かっていたんです。それがこの記事なんです。
「アメリカを引き裂いたもの」from 9.11 USAレポート
この記事の中間にある教育の部分がずっと覚えていたことなんですね。
ここで冷泉氏は、クリントン政権での教育改革に一定の評価を与えた上で、その教育改革が別の格差を生み出した、と論じています。要は今の出来る生徒というのは、勉強+性格+運動という「できすぎ君」なわけです(ヘタをすればこれに「容姿」なんてことが入ってくるかもしれません)。そうするとそれにこぼれた人たちは行き場がなくなってしまう、ということが起きているんだそうです。私は実際にアメリカのことは分かりませんが、ドイツでは小学校五年生くらいで大学に至るまでの進路がほぼ決定してしまい、その後路線変更が出来ないという制度があります。やはりその制度から落ちこぼれ、どうしようもなくなった人たちの問題というのはあり、それが極端になると、何度かの銃乱射事件(紹介した記事で書かれているコロンバインの事件と似ています)のような悲劇が起きてしまいます。
何故このことがずーっともやもやと頭に残っていたのか?実は「多様性」とか言いながら、今の日本での社会の方向が、こういう「できすぎ君」を増やす方向に進んでいるように見えるんですよ。
こういう「できすぎ君」自身に何も罪はありませんし、そりゃそうなりたいと思います。ですが、(まあ勉強も含めて)やはり人には限界があるわけです。ところが、何となくこういう万能性がドンドン喧伝されてきて、そこばかりにスポットライトが当たるようになると、そうじゃ無い人は本当に取り残されたようになるんですね。
以前も書いたんですが、山田太一が話していた「頑張れば夢かなうは幻想、傲慢」というのは何の取り得も得意もないこの私には本当に良く分かる。ここでは20代に話を絞っていますが、別にそれ以外の年代であっても同じことでしょう(ちなみにこのインタビューが「日経アソシエ」掲載だというのも一つの肝だと思います)。また、香山リカの「しがみつかない生き方」がベストセラーになるのもある意味良く分かる。あまりに差が大きくなりすぎて、「んなもん出来るわけねえじゃねえ」というところが出発点になる。そうするとドンドンさらに差が開く、という格差の拡大。それもあまりに今の基準を高いところに持って行っているから初めから諦めざる得ない。
今の世の中が極端で、二者択一の空気を物凄くまとっている気がするのは私だけなのでしょうか?勝ちじゃなければ負け、という空気。本当は「引き分け」だったり「延長」だったり「再試合」だったり色々な形態があるはず。
結局ぐちゃぐちゃ何が言いたいんだこの中年デブは?ということになるわけですが、「地味な真面目さ」というものをしっかり持ちたい、ということです。例えば子供をきちんと成人させるとか、同じ仕事を何十年も続けることに価値を持たせるとか。ここで言う「夢」というのを「仕事の成功」と置き換えてもさほど主旨は変わらないとすれば、「仕事で成功しない」ことはそれ以上でも以下でもない、ということ。誰だったか「仕事で人は磨かれる」という本がありましたが、それは違うと思う。じゃあ人格者はみんな仕事が出来たのか?仕事が出来ない奴は磨かれない奴か?そんなに仕事に重きを置く必要なないと思います。
同時に、成功者には正しい賞賛をするというのも大事なことだと思うんです。ちゃんと功を為したことに対して賞賛し、もっとそれを進めてもらう。そうすればもっとそのことで世の中が良くなるわけだから、善なる回転をするために、無用な妬みなどを排除しなきゃならないですね。
別に纏めるつもりもなく、だらだらと書いたわけですが、要は「平凡で日々生きていること」をしっかり持っておきましょうや、ということです。あー、自分で何が言いたいのかわからんなあ。
追)今日、年を一つ取りました。あーやだやだ。
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