元気の出る表現ってあるんじゃないか?
さっきも少しテレビを見ていて出てきましたが、今や「日本衰退論」が大流行です。曰く
英語の出来ない日本人
改革ができない日本
スピードが出せない日本
人口が減って若者が駄目な日本
で、さらにこういう中で、「日本は英語が出来ない衰退国家だ」という文脈で語られるブログや評論が多いこと。
いや、事実ではあるんですが、なぜかしっくりこないんですね。
その原因って私には二つほどあります。
1.そんなに現状で日本はひどいのか?
私の世代(東京オリンピック前後の生まれ)は物凄く恵まれた世代ではないか、ということで先日もysjournalさんと確認できたのですが、その後の世代にしても、その前の世代の色々な遺産やインフラを享受していたわけです。それは例えば高い教育水準であったり犯罪の少なさであったり最低の食確保であったり。その点を無視して、「老人がこの国を支配している」「彼らを追い出さないと」というだけでは何か公平ではないと思うんです。少なくとも(格差論はあるにせよ)一億人以上の人たちの大半がまあ普通に暮らせる国というのは、現時点では恵まれた国だと思います。
2.その言い方が元気を無くさせていないか?
英語論争でもそうなんですが、英語推進派は、「英語が出来ない日本はもう駄目だ」というところで始まり、英語非推進派は、「そんなの英語の出来る連中のポジショントークだろ?」というところで始まることが多い。私はこれはどちらもその意見の頑強さにおいて同じだと思っているんですね。ものはいいようで、「これで日本人の英語能力が上がったらすげーよ」という論で話せば物凄く印象が違うのに、なぜかどちらも「否定」から入ることが多くて、「今の日本は駄目だ」論者の論法がまさに「日本的な否定からの出発」になっている。
私自身、物凄く日本の将来は厳しいと思います。が、大半の日本人はそんなに右から左に移住もできないし、双入っても一億人以上の人口の大半は、ごく平凡な人たちです。その人たちに向かって、「お前らさ、英語も出来なきゃもう駄目だよ」といったって、ずーんと暗くなるだけだと思う(直接向かって言ってなくても、平均的に英語が出来ない人が当たり前なんだから)。だったら、「これだけ平均的に暮らせる日本は凄いし、それは日本人の平均を誇ってもいい。で、更に英語が出来れば凄い国になる。なに、これだけの生活を仕事で支えられている我々だから、英語も出来るようになりますよ。ぺらぺらなんて必要ないし、大体他の連中だってぺらぺらなんて一握りですから」という方向で考えればいいんじゃないかな?と思うんですよ。
というのも、硬い文章だからかもしれないんですが、こういう文化や教育や国家観の論争って、どちらの立場でも読んでいて元気が出ない。例えば私はこんな文章が好きです(以前紹介しましたが)。
大変だけど楽しいこと(重松清)
「子育てしてない」「ワークライフバランスは」「家庭を大事に」という圧力を受けている人たちだって、別に皆が皆滅私奉公をしているわけでもなく、当たり前にその人なりに悩んで、家族を思ってやっているわけで、それを一言で「社畜」とかで切り捨てるのは私にはできない。芯からそんな根性の人は少数派だと、性善説だと思っていいんじゃないか?
今、皆閉塞感に悩んでいるけれど、もう少し自分のやっていることに自信を持っていいんじゃないか、そうすればもっと上乗せや変化が可能になるんじゃないか、と思っています。確かに問題はたくさんあるし、私自身腹の立つことも多々あります。中々これからは難しくなると思いますが、それでも生きていかなきゃならないわけで、そのための元気ってもう少しあってっもいいんじゃないですかね。
なんてことを言うのも、結局日本が好きだからなんですけどね。
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コメント
ドイツ特派員様
休みに家内が読んでいた重松清の『とんび』をつまみ読み、勝手に自伝的小説だと思ってました。(小説らしい)
同世代の幸せ感は否定出来ないのですが、私にはお伽話っぽ過ぎる感じでした。
船戸与一は、(たぶん)読んだ事がないのですが、彼と相性の悪そうな福田和也は、好きです。(たいして読んでませんが)
重松清に反応して、関係無いコメントになってしまいました。
投稿: ysjournal | 2010年8月27日 (金) 23時18分
「謙譲心」「反省心」というのは、揺るぎない己への「自尊心」あって初めて成り立つのではないかと思う。
それがないままでは、単なる「卑屈」ですよね。
日本の論壇(そーいうものがあるとしたら)は、それをどのへんに置き忘れてきたのかな?
やっぱり太平洋戦争の終わらせ方から高度経済成長期にかけてのような気がする。
何でも極端なんですよ、振り幅がとにかく。
投稿: | 2010年8月28日 (土) 08時26分
ysjournalさん、
重松清は、確かに美化が過ぎる嫌いがあるかもしれません。痛いところを付いてくるときのある種の当事者感はかなり心をえぐってきます。福田和也は確かに船戸与一を相当に叩いていましたね。それでも彼にはまだ「茶目っ気」のようなものはありそうです。私もそれほど読んでいませんが...。
投稿: ドイツ特派員 | 2010年8月28日 (土) 22時37分
無記名様、コメント有難うございます。
確かに振り幅の極端さはありますね。で、そうするとまた足して二で割るだけの中庸さになってしまうわけで、それも「振り幅の激しい中庸」という同じ意味になるんだと思います。「貴」の意見も「卑」の意見も、単なる意見の垂れ流しになっていることが多いと思う今日この頃です。
投稿: ドイツ特派員 | 2010年8月28日 (土) 22時40分