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2010年8月 8日 (日)

なぜ許容が出来ないのだろう?

最近色々と考える所があり、様々な硬い題材を取り上げるブログや評論のページを徘徊しています。自分と同じ思考の方、違う思考の方、色々ですがとても面白い。

ですが、とても気になるというか、「これは違うよなあ」ということが結構あるんですな。というのは、その意見への異議に対する取り扱い。

特にそういう中でのコメント欄に顕著なんですが、何と言うか、「拒否ありき」「自分の意見ありき」が物凄く目立つ。意見が違うと極端な場合はアクセスを禁止したり。

何か勿体無いなあと思うんですよ。

自分の意見を持つ事と、他の意見を尊重するのは別に矛盾しないと思うんですが、どうしてもそうならない。「うん、そういう意見のその部分は良いんじゃないか?でもそれはこの部分で矛盾するよね」という事からドンドン意見が上の方向に行けば良いんですが、「違う、お前の考え方が間違っている」ということありきで否定から入ったり。自分自身がこの前のエントリーで怒ったことを書いているから偉そうなことは言えないでしょうが、それでも、揚げ足取りのようなことはしたくない。

こんなブログなんて面倒なことを書く人は、確かに自分の意見を言いたい、というのはあると思うんですが、それとは別に「多様な意見が集まる」場になることを期待しているんじゃないか?とも思うんです。私なんてそんな偉そうなことを小難しく書けないんですが、それでも自分の趣味だったりで物凄く色々な新しい情報を手に入れることが出来ましたし、そこでは、「何でそんな音楽聴いてるんだ?」というような話もなく、「僕にはつまらないけど、ここは良いよね」という意見交換が多かったと思います。その否定に対しても「やっぱり合わなかったですか?」で荒れる事も無いんだけどなあ。

海外のブログ状況ってよく分からないんですが、まだまだ「集合知」のようなものが出てくるには時間が掛かる気がします。そこがまだ分からない。と書いて、「分からない」という事を中々言えないのかな?という気もしますね。

さて、私はどうしましょうか?

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コメント

若い世代=子供=ガキ的な書き方=書きっぱなし的なのが増えてきたから=子供時代からネットありきの世代=メールと共に成長した世代が多くなってきたからストレート性が高くなった=直接的否定的から入ることに慣れていない世代とのギャップが生まれる?みたいなとこかね。

「言い方」っていうのが出来てれば「議論」可能だけど、否定論だけとか「言い方」が上手く出来ないと「物分かれ」になるもんね。それを上手に運びながら双方ともの意見を成立させるフィクサー役も必要。当人となるならば逃げ道とかを用意しながら話すだろうけど…、テクニックというか、気持ちの持ち方だろうなぁ、結局は(笑)。

投稿: フレ | 2010年8月 8日 (日) 21時13分

フレさん、

言われて少し整理出来たかも知れませんが、要は「見えないながらの相手」を感じて書くかどうか、というのは大きいかも知れないですね。あと、どうにも分かれてしまう意見の相違もあるわけで、例えば死刑存続と廃止とか。「半殺し」というのはなしで(笑)。

気持ちとしてはやはり「余裕」なのかもしれないですな。結局自分の好きな趣味とかって、「別に他人がどう考えても良いよ。ねえFukiちゃんheart」とかになるわけでww。その辺の違いかも知れないですなあ。

投稿: ドイツ特派員 | 2010年8月 8日 (日) 22時17分

ブログとは違うけれど、mixiでニュース日記を書く時は基本的に全体に公開にするのですが、
それはいろんな意見が知りたいからなんですよね。
否定的なコメントをもらっても「そういう考え方もあるんだねえ」と、自分の肥やしにできますし。
自分と違う意見・価値観への許容ができない人間ってレベルが低いと思うから正直バカにしてしまいます。
「agree to differ」って物事を考えていく上で、かなり大事なんじゃないでしょうか。

でも、多いですよね、許容できない人って。
私の全体公開ニュース日記がプチ祭りになった時は、
頭で考えず、感情だけで「キーーッ!」ってコメント書きなぐる人もたくさんいました。

現実の生活でも、たとえば、Aさんが好きなバンドを私が「嫌い」「無理」って言うとする。
そーするとそれだけでAさんは私がAさんの人格を全否定したように受け取り、傷付いたと言う。
そんなことが何度もありましたから、面倒くさいですw
自分は、例えば浦和れっずを超バカにされたり全否定されても、怒ったり傷ついたり全然しないのになあ。

>>「別に他人がどう考えても良いよ。ねえFukiちゃん」
私もそーゆータイプですw

投稿: ぽんぽん | 2010年8月 9日 (月) 12時51分

 おっと、今度はこれまたキリリと真面目な記事ですねえ。

 私、ウインドウズ95の時代くらいに、いわゆる論争系と呼ばれる掲示板に別のHNで出入りしてたことがあります。ネットで真面目な論争をすることがまだ珍しかったからかもしれませんけど、熱い論争になっても相手を簡単に罵倒するとかはなかった気がします。また、論者も自分で本読んだりして、しっかり調べてる人も多かった。

 今は何か反論の根拠にするにしても、ググってコピペして張り付けるって感じですもんね。最近、会社で仕事上でのネット利用の問題点についてちょこっと話題になったんですけど、今って自分が見たいものや聞きたいものにしか関心が向かない時代なんだと思います。だから議論にならないんじゃないかなあ。

 普通の人ならあまり聞きたくない難しい話や、感情的に受け入れがたい問題について、大勢の人に理解してもらうのは凄く困難な時代になってきているんではないかなあ。そんな世の中の行き着く場所は…ばら色の素晴らしいところだ、って感じはあまりしませんよね。

投稿: しまうま | 2010年8月 9日 (月) 20時47分

ぽんぽんさん、

正にそこなんですね。相手の意見を否定するのはその部分だけであって、それで全否定なんてして無いのに、何故か「お前のかあちゃん出べそ」みたいな話になってしまう。浦和の例にしても、「浦和が嫌い」と「浦和が好きな貴方が嫌い」は全然違うんですけどね。

ちと離れますが、これに似たのでとにかく嫌いなのが、会社で偉くなってテメエの人格まで偉くなっているように勘違いしているド阿呆。こういう阿呆はもう軽蔑するに限ります。

ええ、誰が何を言っても良いんですよ、Fukiちゃんがちゃんと歌ってくれればheartheart

投稿: ドイツ特派員 | 2010年8月10日 (火) 20時30分

しまうまさん、

何でしょうねえ、例えば好きなものって本当は掘り下げたくなるじゃ無いですか。でも、何か目の前のことにああだこうだ言っているのが多いんじゃないですかね?

そういう意味では、「論争で喧嘩するのが好き」なのかもしれません。ただ、その先にもっと良い意見が出てくれば素晴らしいんですが、そこまで中々行かない気がします。

投稿: ドイツ特派員 | 2010年8月10日 (火) 20時32分

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