見ている風景の違い
最近、グローバル人材とかグローバルな活躍とかという言葉が出ますよね。で、本も読んでみたり、ブログをつまみ読みしたりしてるんですが、物凄く平易に言えば、
こんなのは私には無理
という内容だったりします。
で、最近そういう「別世界観」が日に日に強くなっていて。いや、どんな視点でも賛否があったり生理的な違和感があったりするのは判るんですが、それとは別のあまりの次元の違いというか。
いつもこれは話すんですが、一番は個人の資質も含めた、見ている風景の違い、でしょうね。何か存在はわかるんだけど、実体感のないお互いの存在というか。
例えばグローバルという話にしても、いきなり海外と渡り合う英語とかという話になっちゃう。多分それを言っている人は非常に短期間でそれを成し遂げて、しかも回りにも同様の人が多い環境だったんじゃないかな?と思う。で、「英語なんて道具、誰でも出来るようになる」という話になっちゃうと、もうどうしようもなく呆然とする人が出てくるんじゃないかなあ、と思うんですよ。例えば優秀な人が数ヶ月で出来ることを数年以上掛けないと出来ない人は確実に存在するわけです。英語を取ってみたって、その前提になる日本語ですら「あいつの日本語はわからん」とか「語彙が少ない」とか言われるわけで、そこから更に英語って、普通の人にはやはり物凄くハードルが高い。
ところが、その英語について言っている人というのは、恐らくそこまでどうしようもなく出来ない、ということが見えない、判らないんだと思います。その人なりの苦労、というのがあるのは充分に判った上で、それでもやはり判らない。しかもそういう人は全方面にある程度のことが出来ちゃうわけで、その「出来なさ度合い」が全然違うんですよね。
この感覚って、雇用規制撤廃なんかで凄く顕著になります。要は「若い奴が職を確保できるように解雇規定を入れて、流動化すべきだ」という意見と「ちょっと待て、そうやって現場の連中を切って路頭に迷わせる気か」という意見の対立は、正に見ている風景(まあもう少し選挙だとかイデオロギーとかがあるんだけど)が違うからのこと。ただ、やっぱり世の中頭のいい人にはどうしても勝てないわけで、そこに経済だのそれこそグローバルだのが入ると何となくそちらがいいんじゃないかな、という気になるんだけど、それこそ自分を考えれば、どう考えても生き残る、若しくはそれを決めていく立場には立てないと思う。
相も変わらず段々何を言っているのか判らなくなってきたわけですけど、言いたいのは「物凄く出来る人の『こんなことは出来るよね』だけでは人は動けないなあ」ということです。優秀な人は良いんですよ、でも、そのグローバルに活躍できる人材、という話でも私なんて絶対無理、一生無理、死んでも無理、生まれ変わっても無理です。だから英語一つ取ったって、私が昔上げた「とりあえずこれくらいをまず目指そうよ」という段階があっても良いと思うんですけどね。
逆に言うと、自分を劇的に変えたい場合は、その風景を変えるように環境を変える、というのがあってもいいわけですよ。住む場所を変える、仕事を変える、で、そこで余りに上手く行っている人の話だけだとやはり違うと思うんです。もう少し苦労しているとか失敗したとかという話があってもいいんじゃないかな?
もう一つ言えば、「解がない」ことが出てこない本や人の話は余り信用できないな、ということ。全てに答える、美しい解があるなんてものは面白くもないし。
実は、これはある本を読んだときにぼんやりと思ったことなんですが、それはまた書きたいと思います。
って、華麗にスルーしたりするんだよなw。
追)と思ったら、ピクシーのインタビューが消されてやんの(笑)。ということで、別の奴を貼ります。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント