梅棹忠夫の対談を自分に照らしてみたりした
しかしこの本なんか読んでると、梅棹忠夫という人が今に対しても有効な批評をし続けていたんだな、と思います。この本、まあ弟子という人との対談集ですが、ある種漫才みたいなところもあり、彼の軽い感じの言葉でだまされますけど、言っていることは本当に示唆に富んでいる。
例えば、彼なんかは「そんな、自分で見たものしか信用せん」「大体がみんなが話していることは他人の受け売り、自分で出たものが言えんのなら駄目」と言っています。で、これだけ見ると偉く勘違いする可能性が高いんですが、それは彼が現場に行った、というだけじゃない。その後ろに膨大な学習と情報を詰め込んだ上で、「最後は自分がどう判断するか」ということを常に考えよ、と言っているわけです。最近の経営やら指南書で「あの人がこういっている」「この人はこうだ」が羅列する本がありますし、大体にしてSNS界隈はそんなことばかり。だから彼は和辻哲郎なんかでも、外の判断で自分を決めていることに対して、「大スカタン」と切っている。それは、その判断が正しいかどうか、ではなくて、「お前はそれでどうなんだ?」がないところに憤りを感じているんだと思います。
あと、彼の失明については非常に有名な話ではありますが、当然と言うか、相当な出来事だったようです。何しろある日朝起きて、ちょっと暗いな、と思ったらその翌日には完全に失明していた、という余りな出来事であるわけで。それでも、彼の学術への情熱は全くと言っていいほど衰えなかったようで、体調が悪くなっても口述は続けていたそうです。しかしなあ、自分にそれが降りかかったら、と思うとぞっとすると同時に、そこからどうやって意欲を継続できたのか、そこに物凄い能力を感じます。
あと、とにかくわざと難しくする、ということに非常な嫌悪感を抱いていて、「文章は複文はあかん、単文で書かな」とか「読者にわからん言葉使うのは自己満足」とか。更に、立場で語ることにはそれ以上に攻撃していますね。
こういう人の本を読むと、「じゃあ自分は?」ということになるんですけど、とにかく一つあるのは、
シンプルに自分で考え、自分で行動する
ということかな?と思っています。例えば何を説明するにしても、自分で分かってないことは相手にはわからない、とか、分からなかったら行ってみる、やってみる、とか。誰かが行っていたら、「それ、どうなんだ?」と自分で手を動かす、とか。
あと、
不安と思うことは何とかなること
ということかなあ?いつも思うんですけど、どんな中でも戦争や大災害でない限りは、今の日本では大半の人は何とか生きている。私もそりゃ普段から不安だらけで、「いつ会社を首になるかな?」「大病するんじゃないか?」とか、そんなことばっかり考えているんです。でも、大体太平洋戦争の後の焼け野原でみんな日本を作ったわけで、また、東北大地震で被災したり亡くなられた方を考えると、この恵まれた中での自分の周りの不安って、不安にも当たらないんじゃないか、とも思うんですよ。だからって、「うわ、これで明日から絶好調」なんてことになるわけでもないんですけど、少し不安を分解して「どうして?」って考えていくと、意外に何とかなることかも知れない。色んな欲はありますし、お金だってまだ欲しい、貧乏だしね。でも、最低限をまず考えておけば、それから上にあるものは、ラッキーくらいに思うほうがいいんでしょうね。
という愚にも付かないことを考えるベルギーです。
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コメント
ありがとうございます。
最近、「勝間和代さんとひろゆきさんとの対談」の内容に接する機会があり、何だかモヤモヤしていたのですが、今回ストンと胸に落ちました。
たぶん、梅棹忠夫さんと勝間和代さんとは「ダメだこれ」の使い方、違うのではないかなと思います。(詳細は対談ご参照)
ご紹介本、是非読ませていただこうと思います。
あと、ベルギーなんや(笑)。
投稿: トネリコ | 2012年10月18日 (木) 15時19分
トネリコさん、もうドイツに移動しました♪。
もしかしてそれは二年くらい前にTVでやった対談ですかね?あそこからK間さんは消えていった気がします。あの時に、「ああ、この人は自分のために対談してるんだ」と思いましたね。
投稿: ドイツ特派員 | 2012年10月20日 (土) 04時36分