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2013年6月26日 (水)

事業消滅に思う

全くの独り言ですがね。

世界中でありとあらゆる仕事・事業というものが行なわれていて、恐らく殆どは日の目を見ずに終わるのでは、と思っています。
私も今まで幾つかの事業に関わってきました。

昨日、そのうち一番長く、また深く関わった事業の撤退が業界紙にひっそりと発表されていました。前の会社を辞めるきっかけにもなり、また今の自分の仕事を決定付けたものでもあり、世界中を出張できた仕事であり、仕事以上に「同志」として今でも繋がっている仲間が持てた仕事。

元々事務屋である私が知ったかぶっこいて技術プレゼンやるわ、挙げ句は大学の研究論文集に論文を出すわ(しかもモノの2時間で書いたエッセイですな)、韓国企業の理不尽さにうなだれ、ドイツ企業の理不尽さに怒鳴りあいの喧嘩になった上足許すくわれ、社内のド阿呆な上層部とやはり喧嘩になって口を利かなくなり、でも、一緒にやっていた連中には本当に助けられ、ロクな利益も無いのに色々奔走してくれた上司に恵まれ。

結局全く当初の目標を達成できず、延命に延命を重ねての結論だったと聞きました。私がいたときから非常に状況は厳しいものでしたから、ここまで引っ張れたのは私が会社を辞めてからあとの人たちの頑張り以外にはない。

こんなことに感傷的になるのは事業、という観点からいうと一ミリの意味もないと思います。でも、もしこの事業が無かったら、今の自分は間違いなく違うものになっていたはず。また、以前からちょこちょこ言っていますが、やはりどこかに「自分は逃げた」という負い目は残っている。これも純粋に事業、と考えると全く意味のない感情なのでしょうが、持っているものは仕方がない。

仕事なんていうのは食うための手段である、というのは全くその通りだとは思うんですが、それでも多くの時間を仕事に費やし、下手すれば家族より長く同僚と付き合うわけで、そこにはやはり綺麗に「これは手段」などと割り切れないものがあります。

もし、もしあのまま残っていたらどうだったのだろう?


もし、自分が最後を看取るとなれば、どう幕を引いただろう?


もし、その場にいたらどんな感情が湧いただろう?


ずっと考えています。

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