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2015年7月20日 (月)

「絶歌」出版でぼんやり考えてみた

少し前に出版された「絶歌」という本があります。この出版に関して、世の中で物凄く拒絶的な意見が出てきました。

多分皆さんはある程度ご存知でしょうが、これはかつて未成年で重篤な犯罪を犯した人が、そのことから現在に至る事を書いたとされる本です。
出版に関しては、犯罪の被害者の方が出版差し止めを求めたり、出版社の拝金主義・筆者のやり方への批判が今でも噴出しています。

で、このことは色んな難しいものが存在しているなあ、と感じています。

まず大前提として、この筆者は、その刑の軽重の議論を別にすれば、既にその法的な処理を終えている訳で、その時点で過去の刑というものはリセットされるということがあります。いや、実際にそんなに綺麗に割り切れることはないでしょうが、実際はだからこそ「刑」というものが存在している。

更に、「表現の自由」というものがあります。昔の永山則夫の「無知の涙」を引くまでもなく、誰でも表現することは可能。もしその中に事実誤認や不快な表現があれば、それを裁判で正すという道はあります。

また、著者が自身の犯罪をネタに収入を得ることに対しての批判が非常に大きくて、中には「彼の収入は被害者に充てるべき」という声もあります。法として一般人になっている彼は収入をどう担保すればいいのだろうか、という事もあります。実際には収入が殆どなかったらしい中で、彼は飢え死ぬべきなのか?

「こういう出版は規制しよう」という意見も見かけました。では、それを規制するのは誰か?刑を終えて罪を償う、ということとどういう関係になるのか。国家がそれを規制するというのは、上に言った「表現の自由」を侵害するのか?

これは、あくまで加害者を加害者と見ず、既に刑を終えた一般人という前提で見ている視点です。実際には、犯した罪と刑に対して犯された被害者はあまりにも理不尽であるのは、「心にナイフを忍ばせて(奥野修司)」や「そして殺人者は野に放たれる(日垣隆)」などを読んでも明らかではあります。

それでも、この件だけで安易に「法規制を」っていうのはおかしいんじゃないか?って思うんですよ。
だからこそ

この本の出版には出版社は自制的であるべきだったと思います、出すべきではなかったでしょう。こういう表現の自由が拡大解釈されかねない状況を生むのは駄目ですし。あと、本当にこの本の筆者は筆者なのか?実は他人が勝手に書いたものではないのか?その点も実は判然としないんですよね。実名で出すべきだったし、そうじゃないと余りにも被害者とのギャップが埋まらない。実名だとその後の彼の人生が大変かもしれない?ならば出版社がその生活を丸抱えするくらいのことをすればいい。この件のリスクを取るのであれば、その程度は軽いものでしょう。

これはマスコミといわれる人たちもそうです。被害者は当時の写真も出される、生い立ちも出てくる。でも、加害者は匿名のままで過ぎているわけです。ならば、被害者個人が出たい、という場合以外は出すべきではないのではないか?それが被害者の名誉でもあるでしょうし。

実際に当事者になったらこんな冷静で全く意味の無い意見など破り捨ててると思いますよ。あまり冷静なのがいいのかどうかは判らない。ただ、やっぱり法治国家での生活というのは何処か最大公約数として安全で安定した生活を保障している、という気持ちが強いんです。この件もそうで、実際に明確な正解など無いわけで、それを雰囲気や空気で決めていく、というのは私はあまり好きじゃない。裁判所にも色々おかしな判決を言う奴は居ますが、それでも最大公約数としてはまあ機能してるからこそ、今の日本のまあ機能した生活があるんじゃないかな、と。
最近つまらん事ばかり考えるし、こんなことを敢えて言う必要もないんですけど、何故か考えてしまいます。

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