残り時間
福岡にいます。仕事でちょこちょこ来るようになって半年、それこそ偶然にお客さんから歩いて行けるところに次男の下宿があります。今回、仕事が終わってから飯を食って、一泊して来ました。
次男のところは新しく出来た学研都市で、繁華街とかとも無縁、希望で焼肉食って、その間将来のこととか学校のこととか原発のこととか彼女のこととか色々とだべってました。まあこういう風に対等に喋るようになるのは嬉しいもんですね。
で、翌日は一人になりまして、博多でモーニング食ってまして。レトロな喫茶店。
何か分厚い食パンに卵にサラダにコーヒーで550円。満足でした。で、ふと思ったのは、
今まで無意識に食べ物を摂っていたことが多くないか?
ということ。いや、このモーニングが旨かったからなんですが。
食べる、ということもそうですが、人生の残り時間はかなり意識する位に短くなっている。意識する、というのは、ある程度自分の残りが読めるわけです、あと現役が20年ということは、20年前にどうだったか、から明確に分かるわけで。30代くらいと違って、この年だと20年前は「歴史」じゃなく「事実」。そうすると、20年後までの時間感覚がある程度分かる。
そうすると、何をやるにしても「何となく」っていうのはその残り時間を捨ててるんじゃないかな?という気がしてきたんですね。食事をどう摂るか、楽器をこれから買うというのはどういうことか、仕事で今やっていることはどんな形になっていくのか、人と付き合うのはどういうことか。色んな事を「何となく」やるのが勿体無くなってきました。
いや、これは別に「金かけて良いものを摂ろうよ」ではなくて、安いものでもそこに意識したものを入れたいな、ということで。それこそ「これは無意識でいいよ」という意識みたいなものも含めてなんですけどね。
今、新たにクラシックギターを買おうかと考えています。で、実際にあと何年弾けるか、ということを考えてしまうわけです。当然「だから良いもの買ってもしょうがないから今ので良い」ということと、「その余りない時間を良いギターで楽しみたい」ということの二つになるわけです。これは優劣の問題ではなく思想の問題。行動一つに後悔しないように考えて生きたいな、という事をふと思ったわけです。
人との付き合いなんかも正にそうで、お付き合い頂ける方とはめいっぱい楽しみたいし、もし私がそういう人間でないなら距離を置かれて当然だし、またこの距離感は時が経つと変わる。そういう一つ一つを大事にすれば、まあまあ楽しく老いていけるのかな?と。
こんなことを思うようになるのなら、年を重ねるのも悪いことばかりじゃないかも知れません。
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