2010年7月22日 (木)

切ない曲、切ない物語

久々に酷いアレルギー性鼻炎で今日は苦しんでおりますsweat02sweat02

よく分からないんですね、原因。血液検査ではバリバリにハウスダストへのアレルギー反応が出るらしいんですが、一昨年・去年と全く出なかったり、今回のように中国で突然出たり、直ったと思ったら今日朝起きたら出てみたり。一体何に反応しているのかが皆目分からない。ドイツ時代には全然出なかったり、空気が綺麗な実家(喘息持ちがいるんでかなりダスト管理している)では間違いなく出たり…。

で、こういうときはLight Bringer!というか、こればっかりなんですけどね。これだけ聴き狂ってるのは山崎まさよしの「僕はここにいる」とか山下達郎の「さよなら夏の日」以来かもしれない。ま、暫くはLight Bringer祭りだと思われる今日この頃。しっかしなあ、本人達が知ったらどう思うかね、テメエのオヤジくらいのオッサンが聴き狂ってると言うのは…。

で、自分自身で考えているのが、「切ない感覚が好きなんだ」ということ。あー、ここからはデブなオッサンのキモイ独白ですwwww

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2008年10月 5日 (日)

市井の人からの伝言...「雨の日と月曜日は(上原隆)」

最近、中学生や高校生の頃をよく思い出しています。で、いかにその頃から成長がないかを知り愕然とするわけですが、そんなどうしようもなく未成熟で、平凡で、省みられない人たちの代表として、この上原隆は書を書いているのだと思います。

つまらない嘘をついては赤っ恥をかくという「嘘をつく」、離婚前から付き合っている恋人とのことをあけすけに書いている「ボブディランな午後」、人生の理不尽さとは何かを突きつける「サウダーデ」、親の人生について改めて思う「父の本」など、つまらない人間がつまらないことでもがきながらも生きていることを再認識させる文章がここにあります。その中でも、こんな言葉が私には心に残ります。

「ひとは出自を選べない。人生のスタートは不平等だ。......出発点から、どれだけ自分の生活を向上させたかという尺度によって人生を測るのなら、(私の)父の人生はかなりいい線いっていると思う。それに何より、家族をつくり、子供たちを育て上げたことは偉大な事業だ....」

以前、「友がみな、我よりえらく見える日は」を読んだ時、「他人の不幸集みたいだな」と思ったことがあったのですが、この本は徹底して自分のことを書いていて、自分が経験する情けなさ、恐怖、恥ずかしさをさらけ出しているのがいい。

今、世の中はビジネスが人間のど真ん中を占拠していて、ビジネスのために人生を使い、ビジネスの成否がその人間の成否のようになっていると思っています。が、とにかく単純に生きていくことがどれほど大切か、とにかくその日その日をしのぐことになっても、それは尊いことなんだということが伝わってくる本です。

私が本を読むのは、そこに少しでも心に傷を残してくれる言葉を捜しているからかも知れません。それが少しでもあればその読書は成功、だと。

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2008年9月 4日 (木)

早くに読んどきゃ良かった「プロフェッショナルの条件(ドラッカー)」

最近、柄にもなくビジネス書を良く読んでいるんですね。んで、「まあドラッカーかコトラーは読んどくか」と思い今回読んだのがこれ。

ドラッカーの「プロフェッショナルの条件」。正直、ビジネス書で心に届いたのはこれが初めてかも知れません。「これはやってみよう」とか「役に立てよう」という程度の本ではないです。

ま、興味のある方はとにかく読んで見て欲しいですね。何と言うか、生命の入った野菜の味というか、おかしな修辞無しの言葉が並んでいます。例えば、

・最後に物事を決めるのは価値観である                              ・人間社会において、唯一確実なものは変化である                           ・努力しても並みにしかなれないことには時間を使わない                      ・貢献できることが何かを考えよ                                    ・リーダーシップは、地位や特権でなく、責任である                     

ということがドンドン出てきます。その中でも、

貴方は何によって人に知られたいか、それは年齢と共に変化しなければならない

という言葉が、彼の集約なのではないか、と思っています。それは、おかしな名誉欲ではなく、結局は「美しく正しく生きよ」ということなのだと。その証拠に、この本では、「だからこれをやると金を儲けるようになれる」という話は出てきません。それは彼自身がNPOのマネジメントに関わっていることが影響しているのかも知れませんが、金を目的としていないところに、感じるものがあります。

もう一つ、彼自身が知識社会の長さを証明しているのでしょうが、この本の出版が2000年、ドラッカー91歳の著作であるということに驚きます。90歳超えたら縁側でお茶飲んで下さいよ、お願いだから(笑)。

恐らく近くに置いておく本になりますね。

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2008年5月24日 (土)

同意・反論相半ば、「フューチャリスト宣言(梅田望夫・茂木健一郎)」

フューチャリスト宣言 (ちくま新書 656)

まあ、言ってしまえばWeb2.0礼賛と言えば言える本ですね。脳科学者の茂木健一郎とシリコンバレーコンサルタントの梅田望夫の共著となれば、まあ肉体的な部分をそぎ落とした会話になるのは予想できますな。

要は、「今のウェブ時代はまだまだ可能性を秘めていて、これから更なるウェブ時代で未来はもっと良くなる」ということです。そうは書いていないと思いますが、ウェブ自体が一つの脳活動のようなことを考えていて、そこでどう生きるか、という事を考えよという本です。

この本を読んで思い出したのは、何故か「銀河鉄道999」。まあ年がバレバレですが、あの時、星野鉄郎は永遠の身体を手に入れようと旅に出る。ところが、最後の永遠の身体はネジになることだった、という話ですが、何か我々はその中のネジか?と思えるところもあります。事実、本書の中でも二人が、「どうも自分達がビットに換算されている」「グーグルのために動いている気がする」という発言をしていますが、そこに私の連想が行ったのかも知れません。

本書で私が共感できるのが、茂木健一郎が語るSNSへの違和感(というかある種の嫌悪感)。彼はそれを「ヌルい」と言い、「外部の批判に晒されないSNSには共感できない」という旨の発言をしています。彼は言っていませんが、恐らく「SNSというのは従来のクラブ活動をウェブ上に移しただけ」という感覚もあるんじゃないですかね?要はオープンであるウェブ世界には合わず、単に場を利用しているだけ、という点でしょう。

また、「談合体質を崩したい」というところにも激しく同意します。会社でも言われませんか?「上手くやっとけば良いんだよ...」という言葉。これは別に日本に限ったことではなく、実はアメリカでも欧州でもある話ですが、そういう負の再生産は避けようよ、ということですね。

あと、彼らが「大きな誤解も含めて飲み込みたい」ということを言っているのには、私も襟を正したいですね。

ただ、どうしても分からないのは、何故ウェブ世界が発達すると人が幸せになるか、ということ。勉強が学校に留まらなくなる、世界とリアルに繋がる、知っていることに意味が無くなる....。確かにその通りであるけれど、その先にある幸せっていうのは何なんでしょう?

ウェブ2.0というまことしやかな世界が提唱されていて、旧世代(でも、実は新人類だった)の私などには今一歩理解が出来ないのですが、恐らく言いたいのは、「リアルにある肉体が制御する世界」と「ウェブ上にある情報が制御する世界」が共存する時代になる、ということですかね?彼らはまだウェブ上の世界が小さいと思うからこそ、リアルな肉体部分を意識的に押さえ込んで、ウェブ上の世界に意識を割いているんじゃないでしょうか。そうすればリアルな部分でまた別のことが出来るのでは....という思いがあるようですが、ネットの中毒性(これはこの本にも一部言及されている)を考えると、リアルな部分がドンドン減ってくるのははっきりしている。「フェイストゥーフェイスの価値は本当にあるのか?」という発言もありますが、私はやはり「ある」と言い切りますね。表情・しぐさ・目線といった人間の発する情報は馬鹿にしてはいけない。

「インターネットは弱者を救済する手段」で、「全ての人がネット接続の権利を持つようにすべき」という発言は、実は今起こっていることからすれば、随分恵まれた場に居る人間の発言になってしまいます。例えばミャンマーであったり、北朝鮮であったり、ではネットに接続できたとして、今の不幸はどうするのか?ウェブ世界の発達でさあ世界は繋がった、では肉体のリアルな不幸はそれでどこまで救済できるのか?Amazonで米を注文してフィリピンで買えるか?ヤフオクで家を競り落として四川に送れるのか(これは出来るかも)?まだリアルな中で解決するべき問題が山積していて、それは残念ながらウェブ世界では無理なことなのではないか?今のウェブ社会はまだ富の再拡大化に使われているように思います。

あと、「インターネットは人類の言語獲得以来の大変換」という茂木健一郎の言葉、それは言い過ぎ。少なくともインターネットを含んだデジタルコンテンツの特徴って言うのは、「同じものを」「同時に」「大量に」処理することだと思っていて、それは今までの道具が大きくなったに過ぎないんじゃないですかね?

で、

二人とも、もう少し身体は動かした方が良いと思うであります。

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2008年4月13日 (日)

今回は纏めて読書しました

今回の出張では、久々に6冊も本が読めました。並べるとですね、

瑠璃の海 (集英社文庫)カリナン (集英社文庫)戦力外ポーク (角川文庫)金門島流離譚 (新潮文庫 ふ 25-9)行儀よくしろ。 (ちくま新書)子宮の記憶 <ここにあなたがいる> (講談社文庫)

珍しく理系の本が無かったんですけど、ちょこちょこと印象を。

船戸与一は、文章云々を言わせない現実で持っていってしまう力技で、別格感があります。ただ、彼の傑作だと思っている「砂のクロニクル」や「猛き箱船」に比べると、エンディングでの主人公の心の動きに無理がある感じがします。ただ、現代国際情勢を知りたいんだったら、彼の小説を読む方が手っ取り早く頭に入るでしょうね。

正直、藤田宜永の小説は何冊かは読んだんですが、良さが良く分からない。何か平板な印象を与えるんですね、私には。「くびれ」がない。この本も、面白い着想だと思うんですが、「え、それが結論?」という感じが強い。それは結論自体より、文章の平板さがそうさせているように思えます。「鋼鉄の騎士」も入り込めなかったですねえ。

で、それが春江一也もそうなんですよ。あらすじとしてはかなり面白くなるはずなんですが、どうにも文章が入ってこない。その上にちょっとあざとさを感じる感情移入があるんで、鼻白んでしまうところがあります。逆に小池真理子の文章は美しいと思います。が、如何せんあらすじがあまりにも凡庸。「失楽園」じゃないんだから、という流れなんですな。

そうすると、例えば春江一也のあらすじで、小池真理子が書けば良いんだ、とも思ってしまうんですねえ(笑)。

まあゲッツ板谷については言わずもがなですが、意外とこの人の文章はまともです。凄く地頭のいい人じゃないかな?まあ、「お前、それ本当か?」と突っ込みを入れたくなるんですが、充分笑わせてもらえるんで私は好きですよ。

清水義範は、この内容だと一歩間違えれば「国家の品格」みたいな説教本になる恐れがあるところを回避して、なおかつ言いたいことを言っている、という点で良い本じゃないかな、と思います。文章は非常に分かりやすいし、何より内容が「性善説」に立っているのが良いんじゃないですか?というか、この人の目線は結構気に入っています。

それにしても、頭が良くなるような本はあんまり読んでないですなあ。全体としてだらだら系。

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2008年1月27日 (日)

「十八の夏」(光原百合)

ふた月ほど前に読んだこの本、好きですね。

十八の夏

短編が四編、一応ミステリー仕立てでしょうが、種は殆どばれていて、タネは肝にはなっていません。で、この中で二編目の「ささやかな奇跡」が好きですね。

奥さんをなくして男1人で息子を育てている書店員、そこに来る別の書店の女性、どうも訳ありで.....という、これだけでほぼ結末は見えますな。

この短編の肝は、登場人物が全て善人で構成されていて、過去の暗さを通奏低音にしていないこと。大体、過去の暗さというのは、どこかで現在に繋がる暗さを持ち合わせるように書いていることが多いですが、この小説はそうなっておらず、今の希望に上手く繋がっている。そりゃ現実とは違うでしょうが、こういう優しい小説は、実は本当に泣ける小説になるのかも知れません(現にほろりときた)。

少しほっとしたい人は手にしてみてはどうでしょうか?

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2008年1月18日 (金)

「仕事のなかの曖昧な不安」(玄田有史)

という弾丸ツアーをやっている中、中々印象的な本だと思いました。

仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 (中公文庫)

この玄田有史という人、「働く過剰」などのニート、フリーターなどの研究を行なっている学者で、この本でも、「フリーターやニートはなりたくてなっているわけじゃない。中高年が職を奪っているところが大きい」ということを説明しています。

この本の内容については賛否あるでしょう。当然ある意見が出ればそれに対抗する意見が出る。中高年の職務機会の略奪についても、実は中高年というくくりの間でも戦いがあり、大きな世代闘争の間に重層的に小さな世代闘争がある、というのが私の普段感じていること。

が、その是非よりもこの本で何が気に入ったか?それは本論よりも、最後に都立高校で話そうと思った内容を書き、それに対し実際に話したこと・話せなかったことを書いているところでの本音、弱さの部分なんです。彼が、そんなに進学率が高くない、寧ろ非常に低い都立高校生から、「大学教授っていくら貰ってるんですか?多分高校の先生より高いと思うけど、高校の先生の方が大変だ」と言われ、彼が正直に給与を答えられなかったくだりは好きですね。彼は、答えられなかったことで、「何故自信を持って自分の給料がいえなかったのか?」と自問し、エピローグでその金額を開示、「そういう質問にも、本当に若い世代を応援するのであれば、ちゃんと答える必要があるんだ」としています。

また、「高校生と少し話したからといって、彼らのことを理解したなどと言いたくない」「ニートだフリーターだと括っても個人にはそれぞれに事情が違う」というところは、データを元にしながらも、ほっとするところですね。

彼が言っていたもう一つのこと、それは「Weak Ties」(弱い繋がり)を重要視していること。これは普段から一緒に仕事したり生活したりしている繋がりとは別に、たまに、しかし色々と示唆してくれる人物との関係を重要視しなさい、ということで、もしかすると「メンター」といわれる存在に近いのかも知れません。

これ、自分がブログを始めたことの動機に近いな、と思っています。全然違う、でも何か繋がりのある人たちと繋がりたい、意見を聞きたい、という欲求。それは自分の立ち位置をもう一度確認して、仕事だけではない自分を確認する作業かもしれません。

学者という厳しさより、それこそメンターとしてのやさしさが強い本と思います。

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2007年12月13日 (木)

「無境界家族」(森巣博)

ああ、一泊三日のアメリカなんてアメリカなんてアメリカなんて.....

まあ時差ぼけ考えると短い滞在の方が良いんですがね、それにしてもこれじゃ日帰りも出来るぞアメリカ。舐めんじゃねえぞアメリカ(意味不明)。

と言うわけでも無いんですが、それでも本は読んでました。

無境界家族(ファミリー) (集英社文庫)

まあ、博打打ちの亭主・大学で教鞭を取る妻・飛び級でハーバード等に行った息子という、ある意味お気楽かつ羨望を集める家族の話。まあ一般的な話にはならんだろうな。

彼が別の本(「無境界の人」)でも言っていたのは、「日本人論なんていうのはない!」ということで、それは良く分かる。まあああいう本は最大公約数を纏めて、「ほら、貴方もこんなに日本人じゃないですか!」と言っているだけですから、突っ込めばいくらでも突っ込めるわけですね。結局、「お前さあ、一体どれだけの数の人の話を聞いて物言ってんだよ、はあ?」ということですなあ。

昔、新聞記者だった大森実のエッセイで、日本人の通訳とフランス人の通訳を比較して、「日本人の通訳は言葉はできても背景が分からず使えなかった。フランス人はその辺りもちゃんとしていて非常に役に立った」とした上で、「なぜ日本人は駄目なのだろうか?」と得々と論を展開していました。

「ぶわはははは!それは、貴方の選んだ通訳が良かった・悪かった以上のものでは無いでしょうが」

と当時から突っ込んでいましたが、今でもこのような論理はまだまだまかり通っているようです。彼が言いたいのは、「そんな乱暴な論理で個人を括るなあ!」ということですな。個人はバラバラなんだからという論は良く分かる。

あと、子育ても含め、「好きなことだけやれ!」というのが彼の指針らしい。それはその通りだし羨ましいですが、留保が必要で、

「好きなことをやって他人が迷惑にならない限りは好きなことだけやればよい」

という点をどうするか。「人殺しが好きだからさあ」ということでも成立しかねませんからねえ。

とはいえ、そこここに常識を使った部分があるのは、寧ろわざと突っ込まれようとしている気がします。照れ・てらいの類いと感じました。

ま、悩んだ中年には清涼剤にはなりますが、それが直ぐに生活になるかと言えば、それはね。好きなことだけしたら家庭崩壊・会社解雇は必至でしょうな。

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2007年11月21日 (水)

村上春樹は僕には駄目かも(「スプートニクの恋人」)

横浜に来た。湾から見える波が、ビルエヴァンスのピアノのリズムを追いかけるかのように行き来している。園子はその凹凸を見ながら、「こんな時はピアソラのタンゴが聴きたい」と呟きながら、フェラガモのヒールでこつ、こつ、こつとレンガを鳴らしている.....

なんて情景あるわきゃねえだろ!

と突っ込みを入れたくなるんですなあ、村上春樹。いや、園子でもタツでもいいんですが。今日が台湾出張で、たまたま持って行ったのがこれ。

スプートニクの恋人スプートニクの恋人

何て言うか、ステレオタイプなんですよね。金持ちの30歳前の女性、女子大生崩れのフリーター女性、何となく先生になった大学生。それぞれが満たされていて満たされていない。純文学に現実性を求めちゃいけないんでしょうが、逆にその設定に妙な現実性があり、どうも居心地が悪い。なぜギリシャなのか?伊香保温泉でも良いじゃないですか?

「そりゃねえだろ!」という突っ込みがありそうですが、この辺の設定って渡辺淳一に近くないですか?不倫→温泉→鴨料理かフランス料理→死による終り。でこれが渡辺氏によるところの「純愛」らしいんですが、そりゃねえだろう。

最近、「純文学に意味を求めることは無意味なんじゃないか?」と思っています。例えば、この小説、「喪失と再生」と言ってもいいんでしょうが、それって内容をそのままなぞっているだけだな、と。もう筋は忘れてしまった「ノルウェーの森」も、何となくいけすかなかった記憶があります。あー、自分の俗さが嫌になってくるなあ。

とはいえ、文章の格調はあると思いますし、もうちょっと別の小説は読んでみたいと思います。あと、あくまで私の感想ですから、文句言わないで下さい(ちょっとお願い)。

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2007年11月17日 (土)

「小さき者へ」(重松清)

やはり単身赴任では、中々更新できませんねえ。とはいえ、別に会社にべたっと居たわけじゃなく、九州出張を久々に敢行。やっぱり九州は食事が美味いから良いですねえ。

で、飛行機乗っていつもの如く直ぐに寝て、福岡空港に着いた時は寝ぼけまなこ。前のかごに入れていた本を忘れてしまい、少し耳鳴りがするのでGigabeatも持ってきておらず、「あちゃあ、移動の時どうするかいな?」と思って買ったのがこの本。

小さき者へ (新潮文庫)

「小さき者へ」

大体こういう移動のときは軽めの小説がいいので、重松清は(変な言い方ですが)重宝します。が、今回の小説の身につまされ方は重かったです。

内容は短編が六編。どれも父親と子供の上手く行かない関係を書いています。私は言いたい、重松氏に。

あんた、俺の家族見たんか?

ていうかね、岡山弁で書かれたら、まるで私のことに感じるじゃないですか。あと、多分重松氏が私とほぼ同じ年というのもあるんですが、時代背景が鏡写しなんですよ。背伸びして聞いたリアルタイムじゃないビートルズ、その中で「リボルバー」を持ってくる「小さき者へ」なんて、分かった人じゃないと書けないですって。

アマゾンの書評では、「団旗はためく下に」に人気があるみたいで、それは良く分かる。でも私は、「青あざのトナカイ」に一番心惹かれました。この中にあった一節、

だが、「負け」と「終わり」とは、違う。違っていて欲しい―と思う。

というところに、(この本の主題とは離れているけれど)ほんの少しの光を見た気がしました。

「小さき者へ」は、身につまされながら読みました。中学生位の男子というのは、特に父親とは対立するもので、今の我が家もまさにその状態。分かってるんですよ、父親に露悪的な態度を取る事、一々言われる事にイライラすること。「うぜえ」という言葉、自分が中学生の時の親父への気持ちそのまんま。多分これは、動物としての本能じゃないかと思うんですね。で、出て行く息子と出て行ってもらいたい親父。そこで自立が始まる、と。

ですが、分かっていても、親としての伝わらない苛立ちがあり、どうしようもない淋しさがあり、理解されない怒りがある。多分妻には違った淋しさや憔悴があると思うし、それも分かっているけど自分の苛立ちが先に来てしまう情けなさ。また、「将来ぐれるんじゃないか?」「人に迷惑を掛けるんじゃないか?」「引き篭もってしまうんじゃないか?」という不安。

という思いを抱えたある日、一回り年上の会社の上司に、「息子さんってどうでした?」って聞いてみると、「いやね、本当に中学のころは殴りつけたり、高校では口もきかなかったりで大変だったよ。でもね、一人暮らししてそれなりに生活っていうものが分かったら変わったね。まあ色んな意味でかなりしんどかったけどね」ということで、結局は大差ないというですなあ。

それでもな、自分の部屋のグラウンドゼロ状態、何とかしろや!我が息子。

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