2008年4月13日 (日)

今回は纏めて読書しました

今回の出張では、久々に6冊も本が読めました。並べるとですね、

瑠璃の海 (集英社文庫)カリナン (集英社文庫)戦力外ポーク (角川文庫)金門島流離譚 (新潮文庫 ふ 25-9)行儀よくしろ。 (ちくま新書)子宮の記憶 <ここにあなたがいる> (講談社文庫)

珍しく理系の本が無かったんですけど、ちょこちょこと印象を。

船戸与一は、文章云々を言わせない現実で持っていってしまう力技で、別格感があります。ただ、彼の傑作だと思っている「砂のクロニクル」や「猛き箱船」に比べると、エンディングでの主人公の心の動きに無理がある感じがします。ただ、現代国際情勢を知りたいんだったら、彼の小説を読む方が手っ取り早く頭に入るでしょうね。

正直、藤田宜永の小説は何冊かは読んだんですが、良さが良く分からない。何か平板な印象を与えるんですね、私には。「くびれ」がない。この本も、面白い着想だと思うんですが、「え、それが結論?」という感じが強い。それは結論自体より、文章の平板さがそうさせているように思えます。「鋼鉄の騎士」も入り込めなかったですねえ。

で、それが春江一也もそうなんですよ。あらすじとしてはかなり面白くなるはずなんですが、どうにも文章が入ってこない。その上にちょっとあざとさを感じる感情移入があるんで、鼻白んでしまうところがあります。逆に小池真理子の文章は美しいと思います。が、如何せんあらすじがあまりにも凡庸。「失楽園」じゃないんだから、という流れなんですな。

そうすると、例えば春江一也のあらすじで、小池真理子が書けば良いんだ、とも思ってしまうんですねえ(笑)。

まあゲッツ板谷については言わずもがなですが、意外とこの人の文章はまともです。凄く地頭のいい人じゃないかな?まあ、「お前、それ本当か?」と突っ込みを入れたくなるんですが、充分笑わせてもらえるんで私は好きですよ。

清水義範は、この内容だと一歩間違えれば「国家の品格」みたいな説教本になる恐れがあるところを回避して、なおかつ言いたいことを言っている、という点で良い本じゃないかな、と思います。文章は非常に分かりやすいし、何より内容が「性善説」に立っているのが良いんじゃないですか?というか、この人の目線は結構気に入っています。

それにしても、頭が良くなるような本はあんまり読んでないですなあ。全体としてだらだら系。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月18日 (金)

「仕事のなかの曖昧な不安」(玄田有史)

という弾丸ツアーをやっている中、中々印象的な本だと思いました。

仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 (中公文庫)

この玄田有史という人、「働く過剰」などのニート、フリーターなどの研究を行なっている学者で、この本でも、「フリーターやニートはなりたくてなっているわけじゃない。中高年が職を奪っているところが大きい」ということを説明しています。

この本の内容については賛否あるでしょう。当然ある意見が出ればそれに対抗する意見が出る。中高年の職務機会の略奪についても、実は中高年というくくりの間でも戦いがあり、大きな世代闘争の間に重層的に小さな世代闘争がある、というのが私の普段感じていること。

が、その是非よりもこの本で何が気に入ったか?それは本論よりも、最後に都立高校で話そうと思った内容を書き、それに対し実際に話したこと・話せなかったことを書いているところでの本音、弱さの部分なんです。彼が、そんなに進学率が高くない、寧ろ非常に低い都立高校生から、「大学教授っていくら貰ってるんですか?多分高校の先生より高いと思うけど、高校の先生の方が大変だ」と言われ、彼が正直に給与を答えられなかったくだりは好きですね。彼は、答えられなかったことで、「何故自信を持って自分の給料がいえなかったのか?」と自問し、エピローグでその金額を開示、「そういう質問にも、本当に若い世代を応援するのであれば、ちゃんと答える必要があるんだ」としています。

また、「高校生と少し話したからといって、彼らのことを理解したなどと言いたくない」「ニートだフリーターだと括っても個人にはそれぞれに事情が違う」というところは、データを元にしながらも、ほっとするところですね。

彼が言っていたもう一つのこと、それは「Weak Ties」(弱い繋がり)を重要視していること。これは普段から一緒に仕事したり生活したりしている繋がりとは別に、たまに、しかし色々と示唆してくれる人物との関係を重要視しなさい、ということで、もしかすると「メンター」といわれる存在に近いのかも知れません。

これ、自分がブログを始めたことの動機に近いな、と思っています。全然違う、でも何か繋がりのある人たちと繋がりたい、意見を聞きたい、という欲求。それは自分の立ち位置をもう一度確認して、仕事だけではない自分を確認する作業かもしれません。

学者という厳しさより、それこそメンターとしてのやさしさが強い本と思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月13日 (木)

「無境界家族」(森巣博)

ああ、一泊三日のアメリカなんてアメリカなんてアメリカなんて.....

まあ時差ぼけ考えると短い滞在の方が良いんですがね、それにしてもこれじゃ日帰りも出来るぞアメリカ。舐めんじゃねえぞアメリカ(意味不明)。

と言うわけでも無いんですが、それでも本は読んでました。

無境界家族(ファミリー) (集英社文庫)

まあ、博打打ちの亭主・大学で教鞭を取る妻・飛び級でハーバード等に行った息子という、ある意味お気楽かつ羨望を集める家族の話。まあ一般的な話にはならんだろうな。

彼が別の本(「無境界の人」)でも言っていたのは、「日本人論なんていうのはない!」ということで、それは良く分かる。まあああいう本は最大公約数を纏めて、「ほら、貴方もこんなに日本人じゃないですか!」と言っているだけですから、突っ込めばいくらでも突っ込めるわけですね。結局、「お前さあ、一体どれだけの数の人の話を聞いて物言ってんだよ、はあ?」ということですなあ。

昔、新聞記者だった大森実のエッセイで、日本人の通訳とフランス人の通訳を比較して、「日本人の通訳は言葉はできても背景が分からず使えなかった。フランス人はその辺りもちゃんとしていて非常に役に立った」とした上で、「なぜ日本人は駄目なのだろうか?」と得々と論を展開していました。

「ぶわはははは!それは、貴方の選んだ通訳が良かった・悪かった以上のものでは無いでしょうが」

と当時から突っ込んでいましたが、今でもこのような論理はまだまだまかり通っているようです。彼が言いたいのは、「そんな乱暴な論理で個人を括るなあ!」ということですな。個人はバラバラなんだからという論は良く分かる。

あと、子育ても含め、「好きなことだけやれ!」というのが彼の指針らしい。それはその通りだし羨ましいですが、留保が必要で、

「好きなことをやって他人が迷惑にならない限りは好きなことだけやればよい」

という点をどうするか。「人殺しが好きだからさあ」ということでも成立しかねませんからねえ。

とはいえ、そこここに常識を使った部分があるのは、寧ろわざと突っ込まれようとしている気がします。照れ・てらいの類いと感じました。

ま、悩んだ中年には清涼剤にはなりますが、それが直ぐに生活になるかと言えば、それはね。好きなことだけしたら家庭崩壊・会社解雇は必至でしょうな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年11月17日 (土)

「小さき者へ」(重松清)

やはり単身赴任では、中々更新できませんねえ。とはいえ、別に会社にべたっと居たわけじゃなく、九州出張を久々に敢行。やっぱり九州は食事が美味いから良いですねえ。

で、飛行機乗っていつもの如く直ぐに寝て、福岡空港に着いた時は寝ぼけまなこ。前のかごに入れていた本を忘れてしまい、少し耳鳴りがするのでGigabeatも持ってきておらず、「あちゃあ、移動の時どうするかいな?」と思って買ったのがこの本。

小さき者へ (新潮文庫)

「小さき者へ」

大体こういう移動のときは軽めの小説がいいので、重松清は(変な言い方ですが)重宝します。が、今回の小説の身につまされ方は重かったです。

内容は短編が六編。どれも父親と子供の上手く行かない関係を書いています。私は言いたい、重松氏に。

あんた、俺の家族見たんか?

ていうかね、岡山弁で書かれたら、まるで私のことに感じるじゃないですか。あと、多分重松氏が私とほぼ同じ年というのもあるんですが、時代背景が鏡写しなんですよ。背伸びして聞いたリアルタイムじゃないビートルズ、その中で「リボルバー」を持ってくる「小さき者へ」なんて、分かった人じゃないと書けないですって。

アマゾンの書評では、「団旗はためく下に」に人気があるみたいで、それは良く分かる。でも私は、「青あざのトナカイ」に一番心惹かれました。この中にあった一節、

だが、「負け」と「終わり」とは、違う。違っていて欲しい―と思う。

というところに、(この本の主題とは離れているけれど)ほんの少しの光を見た気がしました。

「小さき者へ」は、身につまされながら読みました。中学生位の男子というのは、特に父親とは対立するもので、今の我が家もまさにその状態。分かってるんですよ、父親に露悪的な態度を取る事、一々言われる事にイライラすること。「うぜえ」という言葉、自分が中学生の時の親父への気持ちそのまんま。多分これは、動物としての本能じゃないかと思うんですね。で、出て行く息子と出て行ってもらいたい親父。そこで自立が始まる、と。

ですが、分かっていても、親としての伝わらない苛立ちがあり、どうしようもない淋しさがあり、理解されない怒りがある。多分妻には違った淋しさや憔悴があると思うし、それも分かっているけど自分の苛立ちが先に来てしまう情けなさ。また、「将来ぐれるんじゃないか?」「人に迷惑を掛けるんじゃないか?」「引き篭もってしまうんじゃないか?」という不安。

という思いを抱えたある日、一回り年上の会社の上司に、「息子さんってどうでした?」って聞いてみると、「いやね、本当に中学のころは殴りつけたり、高校では口もきかなかったりで大変だったよ。でもね、一人暮らししてそれなりに生活っていうものが分かったら変わったね。まあ色んな意味でかなりしんどかったけどね」ということで、結局は大差ないというですなあ。

それでもな、自分の部屋のグラウンドゼロ状態、何とかしろや!我が息子。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 8日 (土)

「プロジェクトの旗揚げ」なんてあり得ねえだろう!

と「勘定奉行」のCMに突っ込みを入れながら今日読み始めた本がこれです。

いかに「プロジェクト」を成功させるか (HBRアンソロジーシリーズ)いかに「プロジェクト」を成功させるか

まだ第一章しか読んでいないのですが、ここの書評にあるように、結構萎える内容が書かれています。ところが、これが今の私が所属するプロジェクト状況にぴったりなんですねえ。

私自身「成功は偶然、失敗は必然」と思っていまして、「んな『プロジェクトX』みたいなことが転がってるわけねえじゃねえの。成功者から聞きゃあ何でも成功だわな」とぶちくち文句を垂れていたんですが、正にその辺から突っ込んでいるみたいですな。

ただ、この本はハーバードビジネスレビューが基のようですが、ぱらぱらっと見たところ、数値解析的なものは殆どなく、寧ろ「プロジェクト推進にまつわるエッセイ集」という趣です。ですから、下手をすると、うまく進んでいないプロジェクトへの言い訳・納得集になる可能性もあります。

私自身がこういうことに対して思っているのは「プロジェクトを組んだからには成功が条件だ」という上層部からの暗黙の圧力があり、それで引くに引けず泥沼にはまるんじゃないかな?ということ。ま、うまくいくものはプロジェクトじゃなくても成功するし、うまくいかないものはプロジェクトでも失敗する。要は手段でしかない訳です。

読み終わったころにもう少し突っ込みが入れられると思います。それにしてもこんな本を読むようになったらもう終りだな(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 8日 (日)

「アジア的生活」(浜なつ子)

最近少し腑に落ちないことを少し分からせてくれた本です。もしかするとこの文章は人を不愉快にさせているかも知れませんが、個人への攻撃ではないのでご容赦下さい。

アジア的生活「アジア的生活」

例えば、少し前に話題になった代理母出産について、何か引っ掛かるものを感じておりました。いや、子供が欲しいという気持ちは分かる、ただそこで「代理母出産」まで突っ走ってしまうその勢いに、「うーん、理解は出来るが納得は出来ん」という引っ掛かり。この問題は難しくて、「あなたは子供がいるからね」と言われれば、反論が出来ないだし、子供が出来たことに対して全く非難するつもりも無いのですが、何かすっきりしないものを感じています。

この本の後書きで浜さんは、「アメリカ人の死の直前まで諦めない姿勢を、凄いと思いながら同時に『しんどいなあ』と感じてしまう」という印象を言っていますが、この印象は凄く良く分かる。アメリカは超格差社会だから、そのようなことを思う間もなく死んでしまう人はとても多いと思うし、今のカトリック系の人たちは「代理母などとんでもない」と思っているでしょうが、やはりそこにはアメリカにある「健全な上昇志向」と言われるものへの疲れを感じてしまいます。

例えば、最近良く出てくるワタミグループの渡邊社長など、こういう健全さをお持ちでどんどん話をなさる。ところがそういう健全さが出れば出るほど、聞いているこちらが疲れてきてしまう。何か大目標を立ててそこにまい進する、その正しさを否定できないために余計に疲れてしまう。代理母出産についてもそうで、その正しさに対して、「え、そこまで動物の生理を超えたところに行っちゃうの?」ということが上手くかみ合わないんでしょう。理論と感情の行き違いというか。

浜さんが書いているように、「足りないもの」を受け入れて、それで自分の生活を見つめる、というのは必要だと思うし、それは別に努力を否定してのんべんだらりと生きることと等号でもないと思います。それは、「この環境は、理解が出来ないけど納得しよう」ということをスタートにすることかな?と思います。

それで言えば、今のアメリカから日本というのは、「幸せ探し」が行き過ぎているのかも知れません。大体、能力格差があっても生きていけるのは人間の特権(他の動物は能力格差があればそれは即、死を意味することが殆ど)ですから、それはある程度仕方が無い。問題は、ある特定の権益が守られる格差を作ることで、それは逆に人間の特権として撤廃も出来るでしょう。

私は、浜さんが書いているような「どんな環境でも幸せは平等」とは思わないし、やはり貧困は不幸だと思う。「貧困な子供の目は美しい」などという空想を信じてもいない(その点でこの浜さんのスラム描写は少し綺麗過ぎると思う)。であるからこそ、ある意味日本人であることは世界の中では相当幸運なことであろうと思うし、その環境で必要以上に足りないものを力ずくで補おうとするのは、違和感が拭えない訳です。

少し別の話で、上に書いた代理母ではないものの、体外受精で生まれる子供は既に日本で一万人を超えているのだそうです。ところが同時に、養護施設で生活している児童は約三万人。いや、凹凸で組み合わせるつもりはありませんが、ちょっと考えさせられる数字です。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年6月10日 (日)

殺すなよ、すぐに

最近の本を見ると、やたら「余命..ヶ月の恋人に」とか、「死後の世界から戻って...」とか多くないですか?これ、私は嫌なんですよ。

今から二年ほど前にブームになった「世界の中心で、愛をさけぶ」も、ブームになるその一年位前に読んで、「何じゃこりゃ?」と思ったのもつかの間、えらく売れたことにビックリしました。まあこの本は文章が平板なのが決定的にダメなんですが、それを隠すためか、恋人の死という背景で泣かせようとしているのが見え見え(あ、Sorapapaさん、長澤まさみを批判はしてませんので)。

ところが、死後の世界や死への直面など、人が死ぬのを使うのがバンバン出てきて、またそれらが売れちゃって映画になって涙頂戴してですなあ、変だぞううう。だって人が死ぬ、というのはそれだけで悲劇だったりするわけで、感動の何割かはそのこと自体に持っていけるわけですよ。要は作者の負担軽減。

まあ好みがあるので何ともいえないでしょうが、死というものに逃げ込まずに生きることを書く小説がもっと増えないと、「一億総死亡感動」になっちゃいますよ。例えばカズオイシグロの「日の名残」などは、何ら凄い出来事もなく、本当に淡々と進む中に色々な思いが詰まっている小説だと思います。

お手軽な感動はもういいんじゃないかな?と思う今日この頃です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年4月28日 (土)

Booklogというものを教えてもらった

私がお邪魔するgwさんのBlogに「Webに自分の本棚を作る」という記事を見つけました。で、私も早速今年読んだ本で、自分の本棚を作ってみました。

「乱読棚」

こりゃ良いですね。いちいち書評を書くことはないですが、忘れた時には思い出せるし、アマゾンへ行って直ぐに類似書を見つけられるし、何より、自分の嗜好がどう変化してきたかがわかりますな。

こうやって並べると、まだ4月末にして、全然記憶に残っていない本もありますねえ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年4月 9日 (月)

「クラインの壺」(岡嶋二人)

(若干ネタバレを含んでいます)

岡嶋二人の本は二冊目で、この前に読んだ「99%の誘拐」が今一歩ピンと来なかったんで、もう一冊と思ってこれを読みました。

クラインの壺

「クラインの壺」

これは私は好きですねえ。メビウスの輪を思わせる入れ替わり、何が起こっているのか?皆さんふと思ったことはありませんか?「本当に今の生活は現実なのか?実は既に呆けていて空想の世界で生きているだけじゃないのか?」ていう風に。私はよくそう想像することがあり、「いや、この想像さえ実体じゃないんじゃないか?」とドンドン妄想が広がっていく。この本での救いのない最後も何故か美しいと感じてしまいます。

この本を読んで、実はある曲の歌詞を思い出しました。

暴いた夢がまた夢で、もう自分が誰かも思い出せない                           見ている夢が完成すれば、二度とはお前に会えないだろう

Dead Endの「I'm in a Coma」です。この曲は素晴らしく、Dead Endのベスト曲といっても良いんですが、もしかするとMorrieは影響を受けているんじゃないか?と思うほどズバリの歌詞です。

しかしなあ、こんな小説でもHRの歌詞を思い出す私って.....。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月31日 (土)

「密やかな結晶」(小川洋子)

相も変わらず前後の脈略の無いこのブログ、ふと思い立って過去に読んだ本の感想をば。

密やかな結晶

密やかな結晶

いや、この小川洋子さん、岡山の同郷ですが、向こうはこっちのことを全く知りません(当然)。というわけではないのですが、やはり「博士の愛した数式」は読みましたし、その他何冊かは読んでいます。でも肝心の「妊娠カレンダー」は読んでいないんだよな。同じ同郷の小説家でもやってることがこれほど違う二人は珍しいぞ、小川洋子と岩井志麻子。

この本、ネタバレがありますから詳細は書きませんが、とにかく幻想的に進みます。どんどん記憶が消される住民、その理由も分からない。そのままずっと物語は進んで....。

この本を読んだ時、何だか昔話を読んだような気分になりました。ご教訓がある訳ではなく、何を言いたいのかも分からない。ただただ、足元をなくした暗闇にぼーっといるような奇妙な浮遊感を感じます。

もしくは、中南米にある幻想小説と言われる分野に近いかもしれません。例えば、バルガス=リョサとかボルヘス、フリオ=コルタサルやガルシア=マルケス等の小説に手法は近いでしょう。ただ、あちらはその裏に、政府に対する抗議や現状に対する抵抗があり、それを別の形で表現しているという事実がありますが、恐らく小川洋子さんはそこまでの思想は無いんじゃないか、と思っています。

別に、「沈黙博物館」という小説も近いものがありますが、ちょっと途中で現実に戻されるところが画竜点睛を欠くというか。

沈黙博物館

沈黙博物館

現実からふっと離れたい時は彼女の小説を読むことが多いですね(「もっと現実を見てくれよ、おめえよ!」との叱責多数の中)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月21日 (水)

高坂正尭「世界地図の中で考える」

先日偶然立ち寄ったブックオフで買ったのがこの本です。新潮選書からのもので今は絶版の様です。

高坂正尭氏は、保守論客として15年くらい前にかなり活躍されていましたが、非常に残念なことに既に亡くなられています。決して全てにおいて賛成する意見をお持ちの方ではありませんでしたが、今の方には無い飄々とした少し笑いの要素もある方でした。これはもしかすると京都大学という文化にあるのかもしれません。京都学派の一人である梅棹忠夫氏なども同じような味わいがあると思っています。

この本の出版は昭和43年、40年ほど前の本ですが、そこで語られている本質は今でも通用するものが多いと思います。特にアメリカの孤立主義とその世界拡大行動に至る過程、また彼らの誤解からのベトナムの泥沼など、今のイラク政策に見事に重なるようです。

実際に感じることなのですが、実は超大国アメリカに壮大な戦略など無いのではないか、と思い始めています。中東政策などはその典型でしょうが、結構「いいことみたいだし、とりあえずやってみるか」という政策が多いんじゃないか。ところが、その後は(この本でも述べられているのですが)物量でねじ伏せて何とか体裁を整える、ということなのかな?と。この当時のベトナム戦争でも、その戦争の性格・状況を分析している節は無いですし、「ええい、やっちまえ!」ってな雰囲気を感じてしまいます。

このこととは別に、ある年月を経てからその内容が耐えうるものかどうか、検証するのは重要だということですね。一番酷いのは経済評論家と言われる人たちですが、まあ当たらない当たらない。それも、当たらない可能性を論じていればまだしも、「絶対こうなる」と言っておいて外れるから羞恥プレー度満点。

また少し古い本でも読んでみますか(ってそうするかどうかは不明)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月20日 (火)

黒武洋「そして粛清の扉を」

最近、池内ひろ美さんのネット炎上についていくつかの記事を見ました。これを見て、全然関係ないはずですが、黒武洋の「そして粛清の扉を」を思い出しました。

そして粛清の扉を

正月の毎日新聞に、「ネット君臨」という記事があり、ある人がブログに攻撃され炎上、さらに電凸(電話で直接攻撃をすること)を受けた、という説明でした。ところがその後、その人がくだんのブログで実は問題行動をしていたことをばらしており、それが原因となって炎上したのだ、という解説が出ていました。

で、一瞬私も「そりゃ炎上もしょうがないかな?」と思ったのですが、よくよく考えるとやはりおかしい。なぜなら、その問題行動が本当であるのか判らない、もし本当だとして、ネット住人がそれを元にその作者を追い詰めることは許されるのか?ということを考えると、やはりそれはおかしいよな、というのが私の結論なんです。

何故この小説を思い出したのか?それは、どこかでネット炎上と共通するカタルシスをこの小説に感じるからです。ネタばれになるので詳細は避けますが、ある悪事に対して誰が裁くのか、ということに対しての感情移入に対して、相当な恐れを感じたことがあります。要は、「ネットを炎上させる人たち(この小説で言えば復讐を行なう教師)とどこかで感情が一つになるんじゃないか?」という恐れと、どこかこの復讐にすっきりしている感覚と、そこに漬かり込まないようにしたいという私自身の抵抗がない交ぜになっているのが読後感であり、そういう意味では非常に後味のすっきりしない小説ですねえ。

それにしても、もう少し冷静な議論というのは出来ないのでしょうか?AじゃなきゃB、そうじゃなきゃどうよ?という議論はディベートに近いもので、本質から離れるんじゃないか、と思います。議論は喧嘩ではないし、喧嘩になった瞬間に議論ではない。やはりそこにどうしても匿名性という逃げ場があるように感じます。

この辺はもう少し整理して。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月16日 (月)

「失敗の本質」

北朝鮮ったらまたとんでもないことをしでかしてくれて...。

という時期にたまたま出張中の飛行機で読んでいたのが、日本軍の太平洋戦争での負け戦を分析した「失敗の本質」という本です。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究

失敗の本質

太平洋戦争での(ノモンハン事件はその前ですが)主要な負け戦について、如何に意思統一がなく、情に流された決断をその場凌ぎで行なっていたかを分析した名著だと思います。よく言われている、「ミッドウエー海戦の偵察機発進遅れ」についても、それが遅れていなくても多分負けていたでしょうね。

私は「成功は偶然、失敗は必然」と思っているんですが、元々山本五十六にしても、二年以内に戦争を終わらせないと駄目、と思っていた訳で、二年の内に決定的な偶然が無かった時点で負けという必然が待っていたんでしょう。

結局は物量、個々の戦力が劣っている上に戦略が無いのであれば勝てるわけがない。っと言って思い出すのが日本代表のサッカー。要は、精神力ではなく、「下手なら駄目」という基本的なところに立ち返るんじゃないでしょうか。それを精神力などという中途半端な言葉に包んでしまうことが如何に無意味か。

もう一度読まなきゃいかん本だと思います。ただ、この分析とは別に、如何に戦争が無意味で残酷かをよく噛み締めたいですね。特に沖縄戦は、山の形が変わるほどの砲撃があったと聞きます。どれほどの残酷さがあったか、もう一度認識したいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月23日 (土)

「悪の読書術」(福田和也)

先週の出張で読んだ本の中で圧倒的に重かったのは重松清の「幼な子われらにうまれ」なんですが、その感想は別の機会にして、もう一つちょっと面白かったのが、この「悪の読書術」。この人が話題になったのは、「作家の値うち」という本で直接作家の是非を書き募ったこと、柳美里との論争(そういやこの人何処行った?)を起こしたこと、で結構話題になった文芸評論家(っていうんで良いんだろうか?)です。私にとっては著書を読むのは初めてです。

悪の読書術

「悪の読書術」

で、この人が挙げている良い作家が塩野七生や須賀敦子、セカチューやら天国云々といった本を読んでいる人は「恥ずかしい」と一刀両断。んじゃこの前恋愛自由市場主義宣言を読んでいた私はどうするの?

以前ちらっと見たこの人の書評では、船戸与一あたりを無茶苦茶こき下ろしていたんで、やはり美しい文章と言うものがない本は評価しない人なんでしょう。確かに船戸の文章は美文とはいえないですけどね。しかし、この辺は好みが分かれるところで、上に上げた須賀敦子や、他のところでこの本に触れられている高村薫の文章は、私には読みにくいこと甚だしい。途中で投げましたね。

この本を読んでいって、「あれ、この本に似たのなかったっけ?」と思いハタと気づいたのが、「見栄講座」(ホイチョイプロダクション、どうも今は絶版)ですね。この「悪の読書術」は、「知的に見られる」というところを意識しているところで、この本を下敷きにした部分があるんじゃないでしょうかね。そう考えると、「作家の値うち」は最初えらく衝撃的だった「間違いだらけの車選び」(徳大寺有恒)の出版界版そのもの。もしかするとその辺をあざとく狙っているのかも知れません。少し他の著書も読んでいけば分かるかも。

これは想像ですが、何となく平野啓次郎あたりは酷評しているような気がします。何となくなんですが。

さて、見栄張って何読もうか、と考えて、結局次は「海洋危険生物」を読む予定ですね。これで見栄は張れるのか?

海洋危険生物―沖縄の浜辺から

「海洋危険生物」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月15日 (火)

「帰ってきたもてない男(小谷野敦)」続き

昨日書いていた感想で、結局行き当たることは、何でもかんでも出来る万能人間にはなれるかよ!」ということですね。ここからは以前から言い募っていることの繰り返しを含みますがご勘弁を。

先日アメリカに出張した時、現地育ちの人と話していて、「今アメリカの有名大学(アイビーリーグやMITなど)に入るには、成績だけでは駄目。実は大学側で、小学校時代からの生活・性格などを追跡していて、目ぼしい学生を引っ張るようになっている。逆に言えばそういう万能な人間以外は金がないと難しい」ということを教えてくれました。これと同様なことは、以前から読んでいる冷泉彰彦さんのウエブマガジンでも書かれていました、「だから平均的な学生が非常に疲弊している」と。

今、「戦略志向のないビジネスマンは駄目だ」とか、「子供の教育にマッキンゼー式ロジックツリーを使って」とか、「蕎麦打ちなんかで終わって良いのか?」とか、物凄い極端な成功例(とまで行かないこともある)をあたかも「君にもなれる」的な目標にしている風潮が多いんじゃないですかね?「あなたは出来たから言えるけど、できない奴は出来ないんだよ!」というところが抜け落ちている。同じ努力をしたって、才能が違えばできないし、「それ以上努力しろ!」と言われたところで、24時間という時間の制約もあれば、他にしたいこともある。

不正もせず、迷惑もかけず、真面目に、家族を思い、こつこつと仕事を継続する。それはそんなに悪いことなのでしょうか?それじゃあ不充分なんでしょうか?どこぞの社長は、「24時間働け!」と言っていますが、その家族はどうするのでしょうか?その社長が言うべきは、「うちの会社に入るなら、結婚はするな、家族関係は無視しろ」ということのはずで、それでも良いのであれば本人の選択ですね。

私はですね、以前も書いたとおり無名の市井人として生きていきますよ。やっかみもあり、嫉妬もありますが、それも含めて何ら才能も特徴もない市民としての人生を全うしてやるから見てろ!(誰に喧嘩を売っているわけではないが)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「帰ってきたもてない男(小谷野敦)」

最近、小谷野敦氏の著作を何冊か読んでいます。

それにしても、何と言うかなあ。「もてない男」が話題→いきなり結婚して裏切り者扱い→離婚して「帰ってきたもてない男」出版、という絵に描いたようなオチから始まり、何とも情けない嫉妬や落ち込み(これはその前に読んだ「評論家入門」でもかなりありましたが)が、嫌と言うほど詰め込まれています。正直笑って読める私は彼から見ると幸せなんでしょう。

東大を出て、学位をとって、どこぞの大学で教えてなどというと、「そりゃ世の中のことは殆ど分かるんだろうなあ」と思うのが一般人でしょう。ところが、どうも彼の著作を見ると、一般生活においては何故か地雷を踏みまくるような感じです。特に、テレクラでサクラにやられ放題のところを読むにつけ、「お前、大月隆寛に他の学者の評判を聞くんなら、ちゃんとテレクラのことくらい宮台真司に事前に聞いとけよ」と余計な事を思ってしまうくらい。どうもこの人、一般生活が苦手なんでしょう。ただ、それは分からないでもなくて、普通の人が何とも思わない些細な事がとても引っかかってきてしまうんでしょう。ただ、確かに友達は少なそうだし、その友達との関係継続も難しいタイプだと見ました。

彼が言いたいのは、「どう転んでももてない奴というのはいる。だったらそのもてない連中の居場所も欲しいよ」ということではないでしょうか?これは確かに分かりやすい。世の中にはどうしたって出来ないことがありますね。例えば、スポーツや芸術は、「才能」という大きな条件が必要になります。彼が言いたいのは、「そんなことだけじゃなくて、世の中で当たり前と思われていることも出来ない奴がいるんだあ!」という不器用者の叫びにも似たものですな。で、世の中は何でも出来る奴が基準になったりしているからなおさら生きにくい。この「生きにくさ」は、不器用な私などはよく分かります。

ギタリストが同じ四分音符を弾いても上手い奴と下手な奴は違います。男が同じ求愛行動をとってももてる奴ともてない奴は違う。

でもなあ、水泳教室に年単位でいって25m泳げないのはきついだろうなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 2日 (水)

「ビフォアラン(重松清)」

このところ本を読む速度が遅いです。年100冊の目標は難しいかな?100冊以下なら3年振りだな。

とはいえ、ここの所は新書を読んでいて、イタリアの歴史・建築関係の本や、「人妻の研究」などという怪しげ(でもそうでもない)な本を読んでいました。後者は電車では読めないぞお。

で、今日一日で読みきったのが、重松清のデビュー作である「ビフォアラン」。彼の本は以前取り上げましたが、同世代ということもあり入ってくるんですよね。

この本を2ページほど読んで、あっという間に自分の高校時代にタイムスリップしてしまいました。多分言葉は広島弁として使ってるんでしょうが、岡山弁として直ぐ読み替えられるもので、「あー、こんなアホなこと言ってたなあ」という正に投影。しかも設定は私の高校時代そのまんま。この言葉があるから、津波のように当時のことが思い出されるんでしょう。方言が分からない人には読みづらいかも知れない。

確かにこんな読み方は、客観的に作品を読む、ということからすると、ある意味反則でしょうね。「三丁目の夕陽」で涙するのとそんなに変わらない。でも、正直途中からは「そんなのどうでもいいや」という気分で読みふけっていました。

自分自身でいえば、ここに書かれるような正しい青春とはちょっと違っていたかも知れません。そんなに誰かとつるんでいたわけでもないし、もしかするとかなり「変な同級生」と見られていたかも。だから、こういう青春小説には羨望がかなりあります。それでも、なんとなく故郷を出たくなり大学を県外に求めるとか、あまりに同意できるところが多いんだよなあ。受験前にウォークマンを聞きながらホテルで勉強したのを思い出しました。

こういう小説を読むと切なくなって、もう一度やり直したい、と思ったりもしますが、その「取り返せなさ」があるのが良いのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年4月26日 (水)

「国家の品格」に品格はあるんか?

前日書きかけた「国家の品格」についてです。ちなみに1月に一度読んだだけでのうろ覚えです。昨日までは「臓器農場(帚木蓮生)」を読んでたんですが、ちょっと重いんで。

読み当りの良い本ですね。新書独特の軽さっていうのか、講演起しというのも納得できる文体。でも、この読み当りの良さっていうのが私には気に食わない。要は日本人の特殊性を言い募った「日本異質論」との表裏一体さを感じるんですね。それは今アメリカ人が「いやあほかの国のことは知らんけどアメリカが一番だよ」といって悦に入り、世界の警察を実行していることと本質的にはあんまり変わらないと思うんです。「情緒を重んじろ」というのは、あくまで自己の中にあることを肯定しろ、ということ言い換えうることだと思います。その点では、「俺は正しいが他はバカばっか」という俺様野朗とあんまり変わりはなくなってしまう。その点は本人も「私はそう思っている」と認めていますが、認めりゃいいってもんじゃない。この言い草、どこかで聞いたな。あ、小泉の発言に近いや。

あと、かなり偏った事例を基にした内容が鼻につきますなあ。以下気づいた点について。

=突っ込みその1=                                         この本の中で、ゲーテルの不完全性定理の話が出てましたが、要は「全てのことが論理的には証明されない」ということを言いたいのであれば、そんなに小難しいことを引き合いに出さなくてもいいんじゃないでしょうか?というか、私はゲーテルの定理なんていうのは、それこそ新書の解説を読みましたが、自己言及への矛盾についてのちょっとした説明(うそつきのパラドックスでしたっけ?)以外はさっぱりわかりません。何かこの内容自体が理屈っぽく思えるのは気のせいでしょうか? もしかすると「俺は数学者だよん」と言いたいがための引用だったかもしれません。                              =突っ込みその2=                                           何か「海外のエリートは日本の文学についてよく知っていて突っ込んだ質問をする。そういうことに答えられない日本人は駄目」なんて話がありましたが、そりゃ限られた人ですよ。あと、「三島の自殺と夏目の小説での主人公の自殺の違いは?」なんていきなり尋ねてくる人ってのに品格がありますかね?確かに時事関係は良く聞かれますし、そういう知識は出来る限り蓄積する必要はありますが。                             =突っ込みその3=                                          インドではみんなえらく計算が速く正しい、と思われているみたいですが、何人のインド人にあったんでしょうねえ。少なくとも私は、数も数えられないインド人が大勢いるという話を複数で聞いたことがあります。大体10億を超える人がいて、日本とは比べ物にならない貧富の差があるんですから、かなりの数の優秀な人材もかなりの数の不十分な教育水準の人も普通に居るってことが分からないかなあ、この数学者は? ちなみにこの言では、「中国人はみんな商売上手」「イラン人はみんな商売上手」「日本人はみんな商売が下手」などなど枚挙に暇はありません。  

いや、いいことを言っているところもありますよ。例えば「英語なんかやらせる時間があるんなら国語をしっかり勉強させるべき」とか、「子供に駄目なものは駄目、と教えるべき」などの教育論については、納得します。

思うんですがこの筆者、実は会って話すと普通のおっさんで、ちょっとべらべらっと喋った講演が本になっちゃって、ということかもしれません。これはあくまでも私の感覚です。

とはいえ、

「愛国心は悪人の最後の逃げ場」という言葉がありますが、心地よい理屈であるが故に変な対象否定からの自己肯定には逃げ込まないようにしなきゃいかんですな。                                                    

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月23日 (月)

「トワイライト」重松清

本当は荻原浩の「明日の記憶」でも書こうかな、と思ったんですが、私の感覚ではちょっと今一歩かなあと思い、こちらにしました。ちなみに「明日の記憶」は、ダニエルキースの「アルジャーノンに花束を」を意識した書き口が少し印象に残りましたが、ちょっと淡々としすぎていたかな?

「トワイライト」は出張中に何冊か読んだ内の一冊です。重松氏の本は「見張り台からずっと」を見て、「ボブディラン(というより私の中ではジミヘンでもなくフランクマリノ)かあ?」と思って読んだのが最初です。恐らく三十代後半からの人にとっては、重松氏の小説は納得しながらも切なくなる小説と思います。

この本も、26年ぶりの同窓会から始まります。

ネタばれは本意じゃありませんので内容については割愛しますが、三十代後半というのは良くも悪くも人生の後半を意識する時期だと思っています。ふと気がつくと会社以外で知り合う機会はない、会社に親友などいるはずもない、会社の中でも先もある程度見えた(私などはもう見え見えの途中下車)、妻は恋人ではなく家族になる、といって恋人が出来る出会いなど無い(という人が大半でしょう)、その家族は皆微妙な時期になる、わくわくすることは明らかに少なくなる、という内患外憂の典型のような時期だろうと思います。同窓会も、その自分の位置をどこかで相対化した確認をしたくなる欲求の表れだと思っています。

重松氏の小説はその不安定な心をグサグサ突いてくるわけです。だから、「三丁目の夕日」のようなノスタルジー描写は、あくまで今を浮き上がらせるための小道具になっているにすぎません。だからこそ、下り坂を意識している人間(私もそうです)にとっては、きわめて「鈍痛のある」小説になるのでしょう。まだまだ上り坂を進んでいると思っている人は、こんな小説は「うじうじしたもの」と一刀両断するかもしれません。

まただからこそなのでしょうが、登場人物はいつも情けなく、あっちへふらふらこっちへふらふらという迷いまくる不惑の大人であることばかりです。この点では、以前書いた白石一文氏の小説での登場人物とは正反対ではあります。

山下達郎の曲に「蒼茫」という曲がありますが、重松氏はこの時代の無名の市民(正に「蒼茫」)を記録したいのかもしれません。重松氏の小説を読むと、山下達郎の「さよなら夏の日」を下絵にして「蒼茫」を聞く、そんな感じがします。

「小学校や中学校の自分は今の自分にはないのだ」という当たり前、かつ冷徹な現実を再度確認することは、重松氏の小説に共感する人ほど厳しい作業だとも思います。かつてのバカやっていた友達も落ち着く、初恋の相手と現実に恋に落ちてもそれは当時の延長ではない、という当たり前のことがなかなか分からないですね。

そんな色々なことがありながらも結局は何とか生きていかなきゃならない訳です。それが生活であり人生ってえ奴かも知れませんねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月29日 (土)

本バトンってか?

出張から帰国しました。今回は短い(6日間)の出張ですが、相変わらずの時差ぼけです。で、長距離出張ではやたら本を読みます。最近本を読む量が減っていましたが、今回のの米国出張でまた纏めて読書しました。

私はあまり繰り返して同じ本を読むことをしない乱読派なのですが、それでもその中の何冊かの本は読み返しています。去年辺りに読んだ読み返し候補も含めて、反芻してみました(要は「私の好きな本・ミュージカルバトン変形」ってことだな)。ちなみにこの文章は飛行機の上で打ったもの。便利になったなあ、を実感します。

①砂のクロニクル(船戸与一)
船戸与一の本はかなり読みましたが、その中でもこの本は彼の傑作だと思っています。彼の著作を通した視点は、「弱者の存在証明」ということでしょうが、この本は世界の中での弱者たちの二重構造(中東であったり当時のソ連内の地方であったり)を照らし出した上でのドラマを描いた作品として、非常に迫力があります。ですから、登場する二人の日本人はあくまで脇役だと考えています。
ただ、この中での日本人二人の出会いは要らなかったんじゃないかなあ。ちょっと情緒に流れた嫌いを感じますなあ。
②チェゲバラ伝(三好徹)
私のゲバラ像はこの本が作っています。まだ「モーターサイクルダイアリー」も見てないしなあ。コスモポリタン的行動者だった彼も、アルゼンチン市民章を持ち続けていたという逸話は、故郷から離れた私にも響くものがあります(あまりのレベルの違いは置いておいて)。無条件に、「おめえ、かっこよすぎるよ」ってもんですね。北斗の拳での「アイン」みたいなものでしょうか←どういう喩えじゃ。
③空白の天気図(柳田邦男)
大学時代はノンフィクションばかり読んでいて、小説と言うものを殆ど読んでいませんでした。丁度大韓航空機撃墜の本が売れていたこともあり、ノンフィクションでの柳田邦男は当時のMust Itemとしてそれなりに読みましたが、この本が一番好きですね。原爆投下後の気象庁の動きを書いた生々しい記録として、「マリコ」と対をなす本かもしれません。
④奇跡の人(真保裕一)
これ、台湾で再放送していたドラマ版をチラッと見てから山崎まさよしを聞き始め、そのあと小説を読んだという変な順番でたどり着いた本です(実はドラマ版の結末は知りません)。掲示板などでは、真保裕一の著作の中での評価は決して高くないようですが、私は好きですねえ。ラストの火事に対する小説の最初との必然性を見つけたときは自分で一人「なるほど」と納得していました。ちなみにこの本を読む前とあとでは、山崎まさよしの「僕はここにいる」という曲の歌詞解釈が全く変わりましたね。
⑤日の名残り(カズオ・イシグロ)
何というか、私がドイツに住んでいたころ良く出張で行ったイギリスの田園風景(陳腐な表現だなあ)が眼前に広がる静かな小説です。前も書きましたが、あんまりエロ付きの恋愛小説は好きじゃないんですね。それならフランス書院の本でも読んどきゃいいわけで(これはこれで有りの世界)、この本は、ものすごいドラマもなく、静かに淡々と心情を描くことに徹して生まれた、届きそうで届かない、でもその届かないことで完結している切ない恋愛小説でしょう。音楽でも小説でも、「切なさ」「哀愁」というものに引かれます。
⑥博士の愛した数式(小川洋子)
今、故郷岡山から売れっ子の小説家が二人出ていて、そのうちの一人が小川洋子です。あと一人は岩井志麻子ですが、まあ同じ年代でこれほど違う手法の人がいるのも面白いですねえ。生まれだけなら重松清もそうですが、彼自身も言っているように「単に出産が岡山だっただけ」らしいので除外。
で、この本ですが、これも静かな小説ですね。そこはかとない切なさと美しさが感じられる小説ですが、大きな意味で愛情小説(なんてのあるかどうかは知らない)ですねえ。今度映画化されるようですが、寺尾聡もいつの間にかはまり役を持つ俳優になっちゃったなあ。ルビーの指輪はどこに行ったんだろう?
⑦Future is wild(イギリスの誰か教授っていうのがわからん)
去年から今年に掛けて、地球進化や動物物の本やDVDをいくつか見ましたが、そのきっかけがこの本です。小学生の頃、「世界怪奇生物全集」のようなものを見たことがある人は結構いると思いますが、その頃の何ともいえないわくわく感がこの本にはあります。空飛ぶ魚や歩くイカなど、「なんでえ、結局将来はイカが地球を支配するんかい」という脱力感と共に楽しめますな。ちなみに、この後NHKの「地球大進化」というDVDを見て、この本の基本コンセプトが良く分かりました。
⑧へんないきもの(誰か忘れたんで帰国して確認したら早川いくお)
ある意味サブカル系ともいえる本かもしれません。この本の勝因(誰が決めたんだ、勝ったって)は、全てが実在の動物であるにもかかわらず、実物の写真ではなくイラストにして「へんないきもの」を紹介したことではないかと思います。これが写真だったらとてもじゃないですが子供は見ることが出来ません。ネットで検索してヤツガクワヒルのお食事写真(ヒルがミミズを食っている)を見ましたが、完全なR指定のかなり香ばしいものでしたね。こういう浮世離れした本は、違った意味で和めますな。
⑨昭和の三傑(堤堯)
今の9条がいかに戦略として出てきたものかを喝破した本です。憲法改正論者も、今までの平和憲法がいかに戦後の日本を守り、発展させてきたかきちんと評価することは忘れないで欲しいと思います。この本の隠し味は、筆者の鳩山嫌いですな。

でもこうやって本を挙げていっているにも、直ぐ「ブックバトン」とかいって出てきたりして。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月 8日 (土)

学歴と教育

最近、「超・学歴社会」という本を読みました。二児の父親としては色々と考えさせられることが多い内容でした。

ソニーの故盛田元会長が学歴不要論に関する本を著して既に20年近くが経過していますが、今だ学歴偏重はなくならないばかりか強まっているようです。

何故か。

結局は実体として高学歴の人に有利に働く社会が出来ているということを、我々庶民が実感しているということでしょう。「もう高学歴から一流企業への成功図式は崩れた」などと言っている評論家もいらっしゃいますが、二重の意味で欺瞞ですね。一つは、「崩れた」というのが全てではなくある一部の現象のみを捉えていること、具体的には、「高学歴の連中が入る一流企業でも、成功できないことがある」「一流企業に入った高学歴の連中でも出世しないことがある」という部分を針小棒大に言っているということですね。これ自体は至極当たり前のことではないでしょうか。

もう一つは、大体にして学歴社会を否定している連中がしっかり学歴社会の美味しいところをかっさらった人生を送っていること。例えば私の親・親戚は殆どが中学・高校卒なんですが、どれほどそのことで苦労したかを延々と言うわけです。そんな声や現実に対して、「いや、この人が成功している」と言った所で、「そりゃあんたは成功した例だけ持ってくりゃ良いが、この現実はどうしてくれる?じゃああんたは学歴隠して再就職した方が成功した、とでも言いたいんかい?」という事には全くの無力なわけです。文部省でゆとり教育を言い出した寺脇某など、どこぞの進学私立から東大ですから、説得力ないわけですよ。かといってそういう人が言わないとシステムとしての公教育は変わらないから難しいのも認めますが。

結局物事は確率の問題で、成功する確率の高い道に流れるのは当たり前の行動なわけです。金と言う尺度でみれば、明らかに高卒と大卒での生涯賃金は違うという調査結果がありました。アメリカに至ってはその賃金差は日本より大きい訳で、「アメリカでは学歴は関係ない」などと言っていた輩は本当に頭を丸めてください(もうそんなことを信じている人も少ないでしょうが)。

で、ここからですが、この状況が現実としてある中で、どうすれば良いかと言えば、やはり公教育の充実というのは外せないと思います。子供に関してはとにかく親の差(能力・財力など)を反映しないようにすることが重要で、そうすれば現在ある将来不安という部分もかなり解消されるんじゃないでしょうか。少なくとも私が住んでいる神奈川県では、なかなか公立に進めさせるというのを躊躇する話が多いと感じています。対して、私が生まれ育った岡山は何しろ教育県ということが一番の自慢であるぐらい公立の強い所です(でした、という過去形かもしれませんが)。本当は公教育にこのような地域格差があるのはおかしな話です。だからこそ単身赴任などが一般化してしまうということですね(公立高校の転入はそりゃ難しいもんです)。

現在40歳前後の親というのは、実は戦後一番授業時間が長い義務教育を過ごした世代なんだそうです。そこから見れば一番短縮された現在の公立授業に不安を覚えるのは当たり前かもしれません。それでも今の子供たちの数十倍は遊んでいたとは思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月28日 (日)

毅然と行きたい(「縛られた巨人」)

先日、南方熊楠という学者の評伝を読みました(神坂次郎著・「縛られた巨人」)。

今、人のことを羨まがらせる風潮が強くないですか?社会の二極化ということで語られることの表れかもしれませんが、やれ金持ちの生活がどうの、セレブになる云々、頭の良くなる何とか、などなど。

あくまで本の内容が事実という前提に立てば、南方熊楠の生活には人を羨むという要素は無かったんでしょう。あくまで基準は自分。自分の欲求、好奇心をそのまま行動に移していった稀有な存在だった。但し金銭的には恵まれなかったようですが、それを犠牲にしてということ自体が頭の中に無かった人のように思います。これは以前も触れたゲバラにも通じることだと思います。

私なんぞは俗世の凡人ですから、やはりいい生活・恵まれた金銭環境には羨望を覚えますし、高い才能には嫉妬をします。それでも、最後にはそういったことを出来る限り排除して、自分の与えられた才能・環境の中で最大限努力していく、それは毅然としたことだと思っています。

笑っちゃったのは、「頭の良くなる料理レシピ」とか何とかという本があったこと。料理なんかを何かの目的にしなきゃならん貧困さ・さもしさというのは目を覆いたくなります。そんなことより、例えば料理であれば、子供とわいわい作って、失敗して、それでもそれが楽しいとか、「いつも妻・母さんはこんなにしてくれている」ということを理解する方がよっぽど教育には良いんじゃないでしょうか。大体、この「頭がよくなる」何とかというブームも、本来の知的欲求を満たすというより、より入力を増やして優越感を得るためにどうすればよいかということが力点のような気がします。それは「浅ましい」ことだと思います。

それにしてもこれほど世の中に「金」のことを蔓延させている現状というのはどういうことなんでしょうか。私が子供のころは、「お金の話なんか人前でするんじゃない」と親に言われて育ちました。それが、「子供の頃からお金のもうけ方を教えましょう」的な本が蔓延し、「この人の一ヶ月の小遣いがいくら」的な報道がなされ、持て囃される(ように見える)。正直、かなり下品な光景でしょう。

人との比較ではなく、自分がどうするか。それは学力の絶対評価を是認するような小さなことではなく、ある意味非常に厳しい自己の再見直しを迫られることになるはずです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年7月25日 (月)

一瞬の光(白石一文)

今はアメリカへ向かう飛行機の中です。今回は一番後ろの席だわ、夜間ライトが故障しているわ、えらく揺れるわ、温度設定はえらく低いわ、口内炎は痛いわで堪ったものではありません。特に夜間用のライト故障は読書が出来ないというのは、長距離フライトを纏め読書の時間としている私にはとても大きな問題でして、周りが明るいうちにあわてて読んだ一冊で終わりです。

その一冊は、「一瞬の光」(白石一文)です。この本、去年読んでいたのですが、この出張のための本の纏め買いの時に気づかずに買ったものです。改めて読むと、まあ出来すぎのところはありますが、「無償の愛情」というものをそれなりにうまく書き出していると思います。対比としての社内抗争が主人公を無私の境地に導いているでしょう。実際には、更にどろどろした抗争に入っていくような気もしますが、まあそれは小説ということで。ただ、自分自身はこんなエリートでもないんで、社内抗争なんてのには無縁なだけに、「そんなもんかなあ?」とボーっと思うだけですね。

ただ、途中の性愛表現(特に後半)はちょっとくどいかな?エロ自体ははっきり言って大好きですが、このようなもう少し大きな意味での恋愛小説では、出来る限り性愛表現をなくしてもらいたいと実は考えています。あと、これも小説だから、というのはありますが、こういう小説に出てくる女性がいつも綺麗で才媛で床上手ってのはちょっと。

このような本を読むとやはり自分自身で愛情のことを考えるのですが、このような無償の愛情を掛けることが出来る一番身近な存在はやはり家族では。この本の途中で「俺は女房も子供も愛することが出来なかった」といって妾に甘えた末に自殺する男が出てきます。人間が掛けられる愛情の範囲はもしかすると決まっているのかも知れません。自分は家族を本当に無償に愛しているのか?これからも今以上に出来るのか?今までの色々な自分に降りかかったことを考えると、このことを考えるのは無駄ではないようです。

最後の方での香折への独白に近い問いかけは、言うことを聞かない子供への親の問いかけにもなるでしょうし、老いた親への慰めにもなるんでしょう。